B07『猫の骨』

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 星に願いをかけられない。
 流れ星を見たことはある。
 空の黒を、光が滑っていく。遠い場所の出来事のせいか、どこか光は温度を失っている気がする。キラキラと光る。曲が一オクターヴ、高い音階で鳴る。ピアノ教室にあった玩具のピアノの音だ。
 願い事をしようか、とようやくそこで葦木場は我に返る。簡単だ。三回、唱えればいい。繰り返し唱えれば望みは叶う。指を組まなくたっていいし、賽銭の必要もない(だから洗濯籠を抱えたままでも願いを叶えられる)。
(自転車に乗れますように、自転車に乗れま、)
 背が小さく。
 なりますように。
 葦木場の願いはいつも、途中で変化する。自転車に乗れない、のと背が伸びるのは、同じ意味だ。
 その、どちらを採用すればよいのか、いつも葦木場にはわからない。
 
 
 
 
 その日もそうだった。
 星が空を滑り、駆け去っていくのを、洗濯物の山越しに葦木場は見送った。背の高さ、と自転車、を交互に思い浮かべたときには星はもう、地平線のラインを越えていた。最近、星をこんなに見つけるのは、自分が背が高いからなのだろうか。
(やっぱり身長だ)
 思い知ると、どっと疲労が襲ってくる。骨が、筋肉が急激に重さを増す。骨と筋肉と血と臓器で構成される葦木場の肉体は、自転車競技部の生徒の平均身長を遥かに超え、この身体のせいで自転車に乗れない。速く走れない。
 帰ろう、と身を反転したときに、視界に飛び込んできたのは、また星。と思いきや、遠くの星のように限界まで、光を絞った寮だった。個室以外の、生活に直結する部屋を詰めた棟だ。寮生の暮らす個室の煌々とした明るさと対照的に、食堂や風呂のある棟はこの時間帯は極力明かりを消して、息を潜めている。冷たい光に、腹の底の温度が下がる。夏なのに。
(背が小さくなりますように)
 背中を丸めて、葦木場は食堂の前を通過した。
 どこからか林檎の匂いがする。人工物めいた、林檎から甘さのみを抽出した香りだ。林檎、と書かれた飲み物から、だいたい漂ってくるそれは、長らく嗅いでいると、自分が今、林檎味のする飲み物を飲んでいるのか、甘い匂いの中で無味の水を飲んでいるのか、混乱をきたしてくる。
 玩具のピアノの飾られた部屋には、ぬいぐるみがあったのを唐突に思い出す。林檎と記憶が結びついているのは、その猫のぬいぐるみが、林檎数個分の身長と体重であったからだ(と、ぬいぐるみの説明には書かれていた)。
(林檎って、一個どのくらいの大きさなんだろう)
 林檎、とはっきり脳内で思い描いた途端に、腹が鳴る。夕食の時間はとうに過ぎている。
 食べなければ、身長は伸びないかもしれないと、一瞬、思ったが、その妄想を空腹は凌駕する。
 林檎を基準とする猫は、葦木場よりも小さく、葦木場の骨だけを取り出した重さよりも軽いだろう。林檎の重さの猫が乗った自転車は、星よりも速く、音よりも速く、ラインを割る。
 悲しかった。それだけは確かなことだった。
 星に願いはかけられない。

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