B05『銀河旋律』

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真夜中、家中が寝静まってから青八木は布団を抜け出した。音を立てないように苦心しながら二階の窓をあけベランダに出て、用意していたストラップ付のサンダルを履く。腰の後ろにくるように斜めにかけたサコッシュには、大判のバスタオルと携帯電話、その他。
思ったより暗くない。家の横に立っている街灯の少し緑がかった光が、庭木やアスファルトを照らしている。ご近所の家の雨戸や電気もほとんど落ちていたけれど、ぽつぽつとオレンジの光も見える。
ベランダの柵を足掛かりに、屋根の上を目指す。万が一落ちたりして、怪我でもしたら笑えない。インハイは終わったとはいえ、まだまだ後輩たちと走って、伝えたいことは残っている。
 
昔ながらの瓦屋根は掴むところが多くて登るのが楽だ。てっぺん近くまで這って、バスタオルを広げて仰向けになった。
晴れていて、星が見える。このあたりの空は都心の方に比べたら暗いんだろうけど、天の川がつぶさに見えるほど田舎でもない。四等星?くらいまでは見えているらしい。こうして凝っとみていると小さな光が増える気がする。
毎晩寝ている場所からたった数メートル上に来ただけなのに、冒険しているような気持になる。
 
 
青八木がメールのやりとりをする相手は、家族を除けばふたりだけだ。ひとりは手嶋で、もうひとりは宇宙人だ。
専用の通信機でもあればそれらしいのだけれど、ふつうに携帯にメールが届く。アドレスは文化祭の時にほかのみんなと一緒くたで教えあった。
あの日、手嶋に送ろうとして、これではまるきり弱音だと閉じたメールが、下書きフォルダからどういう奇跡で相手に届いたのかは今でも謎だ。けれど実際に青八木のSOSは送信され、返事があった。
『これ以上どうやったら、速くなれるんだろう』
最初の一言、五分ほど置いてもう一言、更に一時間過ぎてからの一言。
青八木がその受信に気付いたのは、翌朝の事だった。確認すると、日付が変わるくらいに自分が送ったらしいメッセージへの返事だということがわかった。とても驚いた。
『回せ』
『おまえの武器を磨け。スプリンターに向いてると思う。ポイント前で踏み込むタイミングが少し早い。あと十秒粘ってから、頭低くして突っ込め』
『食って回せ』
大雑把だか細かいのか謎な、差出人の名前はブランクだった。住所録にはそのアドレスだけが登録されていた。迷った末に青八木は尋ねた。
『あなたは誰ですか』
 
 
速くなりたくて、必死に練習している。でもそんなのは自分だけじゃない。憧れの田所さんとは体格が違いすぎて、すべて同じに走るのは難しい。目標はインハイ優勝。レギュラーの座を一年に譲った年に現実になってしまった夢を、再び追いかけるしんどさは、きっと手嶋の方が感じている。支えあうのがチーム二人だ。
青八木にできることは、ひたすら自分の走りを磨いて、チームと新部長に貢献すること。後輩たちの面倒をみること。
わかっているのに。わかっているから、不安だった。それで手嶋以外の誰かに頼る、という発想もそもそもなかった。
一年前のことだ。青八木が二年で、金城さんや田所さんとまだ一緒に走っていて、鏑木たちはまだ中学生で顔も知らなかった。たった一年前のことなのに。
 
 
墨色の空に、ピンで刺したような星が見えている。
真夜中にこうしてひとり黙っていると、遠くから電話がかかってくるような気がする。
くったりと抜け殻のようなサコッシュからパワーバーを取り出して、かじる。チーズ味、一番食事っぽい味がするから好きだ。そういえば、「深夜に食べてしまう甘いものは、罪の味がする」とかマネージャーが言っていた。走ればすぐそんなカロリーは消費されるのに。これも。
走りながら頬張る時は、飲み込めるだけの大きさに噛み砕いて流し込んでしまうから、実際味はあんまり関係ない。ようでいて、妙に唾液に残ったりもする。
今は一口をゆっくりと食べる。牛とまではいかないが奥歯で念入りにつぶして、唾液と混ぜてどろどろの液体みたいにしてから、喉をならす。甘い。案外美味い。これが自分たちを走らせるガソリンの本当の味だ。身体の中で熱になるものだ。さんざん世話になった。
 
『食って回せ』。それはあまりに単純な指示だったから、ほとんど補給食を手にするごとに思い出されて、すっかり青八木の血肉になった。見ていてくれた、誰かの言葉。本人の申告通り、宇宙人、と登録したアドレスにはあれ以来一度も連絡を取った事がない。名乗られた答に意表をつかれすぎて、どう返事したものか悩んでいるうちに機を逃した。もともとが混線みたいにつながったやりとりだ。
 
ありがとうございました、とお礼を言うなら、きっと今日だ。
宇宙にメールを送るなら、空に少しでも近い方がいい。屋根の上とか。だいぶ夢見がちな事を考えている自覚はあるけれど、彼と、彼のもたらした言葉の不思議な影響を思えば、多少オカルトめいた事も現実味がある気がしてくる。
今じゃ自分がオレンジーナの神、と呼ばれていることだし。――それはあまり、関係がないか。
パワーバーの最後の一口を飲み込んでしまったら、屋根の上から、少しの勇気と非日常に背を押されて、送信ボタンを押そうと思う。
奇跡みたいにうまいこと繋がって、遠く離れた場所までどうか電波が届きますように。
 

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