B03『Fishes are hard to know』

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 新開が東堂尽八を初めて認識したのは、新緑が目に鮮やかな山道でもなければ、埃が穏やかに舞い落ちる薄暗い部室でもなく、朝の光が射し込む学生寮の食堂だった。
 その日は入学式であった。朝の自主練習を終え、着慣れぬ制服に身を包むと、福富とともに食堂へ向かった。ピークは過ぎたらしく、食堂の席はまばらに埋まっていた。見回し、部屋の隅に腰を下ろしたが、それは新入生ゆえの気後れではなく、単に炊飯器に一番近い席だったからだ。
 すぐに食べ終えてしまった福富は新開を気遣う様子もなく、「先に部屋に戻る」と席を立った。新開も慣れたもので、「入学式には間に合わせるよ」と見送るのみであった。
 さてと、と呟いて新開は朝食に向き直る。すでにサラダと切り干し大根入りの卵焼き、味噌汁でご飯1膳は平らげた。運動部が多い寮だからか、ご飯と味噌汁はおかわり自由らしい。ありがたい。
 限界までよそった白飯と味噌汁を新開はうっとりと眺めていたが、お盆の中央に横たわる魚に視線を移すと、わずかに眉をひそめた。
 新開家の朝食は常にパンだった。パン1斤と山盛りのサラダ、目玉焼きやオムレツなどの卵料理。そして、ウインナーなどの肉料理が並ぶ。
 魚料理はごくまれに実家の夕飯に出ることもあったが、魚の目が怖いと悠人が嫌がるため、ムニエルやフライなど原形がわかりにくい形に調理されていた。
 つまり、新開は目の前の皿に横たわる魚の名前はおろか、食べ方すらわからずに途方に暮れていたのだった。
 じっと新開は魚を観察する。
 焦げ目が全体についているから、色はわかりにくい。だが、おそらく背中が青くて腹が白い。試しに持ち上げてみる。案外と重い。身が詰まっている。
 頭から食べられるのは鮎だったか。鮎にしてはくびれのない胴体だし、色も違う気がする。
 まずは齧ってみるかと大口を開けたとき、ふと斜め前に座っていた人物に目を奪われた。
 鴉の濡れ羽色――昔読んだミステリーに出てきた言葉だ――その真っ黒な前髪をカチューシャで上げていて、形のよい額がのぞく。
 まるで日本人形のようだと思ったのは、恐ろしいほどに整った顔だちもあったが、それ以上に感情が浮かばない能面のような表情のせいだった。
 緊張する新入生や友人たちと会話を楽しむ上級生の中で、その男だけが異質だった。やや大きめで糊がきいていそうな制服から、同じ新入生だと推測したが、それにしては落ち着いている。大人びているというよりも、年齢を超越した存在に思えた。
 男は優れた外科医のように迷いのない手つきで魚を解し、美しい所作で口に運ぶ。
 ふと、男が顔を上げた。視線が交わる。
 今朝走った芦ノ湖みたいな瞳だなと思った。空の青さがとけ込んだような大きな瞳。
 だが、同時にわずかな険も感じられた。意志の強そうな眉がひそめられていたからかもしれない。
「何か?」
 男の声は大きくはなかったが、真っ直ぐに届いた。
「いやあ、食べ方綺麗だなあって。これ何の魚?」
「鰯だ。まだ旬ではないが、よく脂がのっている」
 ふと中学の頃、授業で読んだ詩を思いだした。鰯の大漁に浜辺は祭りのようだが、海の中で仲間たちはその死を悼んでいるだろうという詩だ。
 もしかしたら、この男の表情のなさは、魚たちの死を想ってのことなのか。
「食べたことがないのか?」
「んーつみれならあるかな。――そっち行ってもいい?」
 新開の申し出に男が了承の返事をした。すぐさま立ち上がり、盆ごと移動する。知り合いを増やしたかったのもあるが、純粋に男に興味を抱いた。
「オレ、新開隼人。よろしく」
「東堂尽八だ」
「この魚って頭食えんの?」
「このサイズだと厳しいな。内臓を取っているから、そこに箸を差し込んで開くと綺麗に身が分かれる」
 言われたままに箸を入れると、手品のように身が綺麗に取れた。
 醤油を垂らした大根おろしと一緒に食べると、脂が口の中に広がった。思わず飯をかき込む。予想していたよりもずっと美味かった。
 それから自己紹介を兼ねた雑談をした。東堂が箱根でも老舗の旅館の嫡男と聞いて、新開は得心した。
 行儀のよさは、客人の目を意識したものだろう。雑談でも適度に笑みを浮かべ、すべての受け答えにそつがない。
 だが、それはどこか新開との間に見えない壁の存在を思わせた。東堂からの質問は社交辞令のような印象を受ける。会話が途切れないように当たり障りのない質問を投げてくるような。
 人に対する好奇心の希薄さ。人となれ合うのが好きではないのだろうか。それとも、新開のような人間を好まないのか。
 そう考えながらも、3杯目のご飯をよそいに立ち上がると、東堂が少し呆れた顔をしていた。
「よく食べるな」
「だって、朝一で走ってきたからさ。芦ノ湖ぐるっと」
 新開の言葉に涼しげに茶を飲んでいた東堂がわずかに目を見開いた。何か驚くことがあったのだろうか。しかし、そろそろ時間がない。ねこまんまにして掻きこもうとしたとき、東堂が口を開いた。
「新開」
 初めて東堂に名前を呼ばれた。その響きに思わぬ温もりを感じて、新開は無言で顔を上げた。
「ロードバイクに乗っているのか?」
「あれ、言ってなかったっけ? 中学はチャリ部で、箱学で走りたくてってさ――」
 続けようとした言葉は、東堂の差し出した手によって遮られた。冬の間に少し薄くなっているが、ロードバイクに乗る者特有の指先だけが焼けた手。
 手と顔を見比べていると、東堂が初めて満面の笑みを見せた。にかっと大きく口を開けて笑うと、年相応の男子高校生だった。
「改めて自己紹介をしよう。東堂尽八、インターハイで山岳賞を獲る男だ」

 部を引退し、4人が集まるのは朝晩の食事の時間だけになってしまった。
 自転車に乗る時間は減ったが、食欲は現役時代とさして変わらない。それどころか自転車に乗れないストレスで今までよりも食べてしまう。
 ひじき、きゅうりの浅漬け、大根と油揚げの味噌汁、さんまでご飯を4杯平らげると、荒北が新開の腹をつまんだ。
「肉乗ってンぞ、このデブ」
「天高く新開肥える秋だな!」
「春までには絞れ」
 福富の忠告に新開は片目をつぶり、「わかってるよ、寿一」と返した。
 誰ともなく食器を下げに立ち上がる。ふと新開が笑い声を上げると、前を歩く荒北が振り返った。
「突然なんだヨ!」
「いやぁ、みんな魚を食べるのが上手くなったなあと思って」
 全員の皿の上にはさんまの頭と骨だけが残されていた。まるで発掘された化石のようだ。
「そりゃー綺麗に食わねェと面倒なヤツがいるからァ」
「面倒なヤツとはなんだ! 誰のおかげで魚を食べられるようになったと思っているんだ。さんまもあじの開きもカレイの煮付けも、食べ方を教えたのはオレだろ!」
 放っておくと、口論に発展しそうな荒北と東堂の間に入る。
「尽八と初めて話したきっかけは鰯だったよな」
 出会ってから3度目の秋を迎えようとしていた。初対面の相手に山岳賞を獲ると豪語した東堂は、この夏その宣言通りに燃えるような赤いゼッケンを獲得した。一方で、新開は東堂ほど美しくはないが、魚を食べる技術を身につけた。
「あのとき、尽八は鰯の追悼をしてるのかと思ったよ」
 新開の言葉に東堂がニヤリと笑う。
「そんな繊細そうな美形に見えたか」
 最初は人形みたいだと思った。けれども、自転車に乗ればその端整な顔を歪めペダルを回し、チームのために走る献身的な男だと知った。東堂は見た目とは全然違う男だった。
「――第一印象なんか当てにはならないな」
 呟くと、同じことを考えたのか、福富と荒北が大きく頷いてみせた。

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