A09『変わらない場所』

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 見慣れた暖簾の奥から、酔っ払いたちの笑い声が聞こえてくる。
「……ッチ」
 一瞬、入らずに帰ってしまおうかとも考えたが、呼び出された以上、さすがにそんなこともできないかと諦めて、暖簾をくぐる。
「いらっしゃい。おぉ、ヤっちゃん!久しぶり!大きくなったなぁ」
「……ッス」
 なじみの大将の威勢のいい声に目礼を返す。大将の目の前のカウンター席で、荒北の父が軽く手を挙げた。
「ンでこんなとこ呼び出してんだヨ、オヤジ」
「せっかく久々にうちに帰ってきたんだ。たまには二人というのもいいじゃないか。昔はこの店に来たくてよくダダこねてただろ」
「……ッセ。いつの話ダヨ」
「本当におまえは盆と正月の閉寮期間しか帰ってこないからな」
 荒北が父親の隣に座ると、女将さんがお手拭きを手渡してくれた。
「ヤっちゃん、何飲む?お酒はまだよねぇ」
「ばか、おめぇ、ヤっちゃんはベプシに決まってんだろ。『男は黙ってベプシを飲め』だっけなぁ」
 この店の常連から笑い声が上がる。
 父の馴染みの焼き鳥屋で、小学生の頃からたまに顔を出していた店だ。常連の大半は顔見知りで、どうにも分が悪い。体じゅうに擦り傷をつくって絆創膏を貼っていたような頃の話を持ち出されたら、身の置き所がない。格好つけてウーロン茶でも頼もうかとも思っていたが、口に出す暇もなくベプシの瓶と冷えたコップが出てきた。
「アザマス」
「靖友、まだ好きか、ベプシ」
「……ワリーかヨ」
「いや、嬉しいよ」
 父親がうっそりと笑った。
「大将、靖友にいつもの」
「おう、ヤっちゃんスペシャルな」
「バッ……さっき夕飯食ったバッカだっつノ」
「食えるだろ」
「……アァ」
「ヤっちゃんにコレ焼くの、久しぶりだな」
 大将がカウンター正面の冷蔵庫を指さした。メモだった。1行目には『やすともスペシャル』と子供じみた文字で書いてある。小学生の頃に書いたものだ。大人たちが言う「いつもの」に憧れて、大将に『オレがいつものっつったらコレな!』と渡した記憶すらある。
「ンでまだとってアンダヨ」
 小声でごちたら、大将が「ヤっちゃんがいつ来てもいいようになぁ」と快活に笑った。
 やっぱりここの大人たちには勝てそうにない。むしろ、反論するだけ子供のころの話を蒸し返されて傷が広がりそうだった。
 荒北は少しふてくされてベプシをコップに注ぐ。
「靖友、お疲れ様」
 父親がビールジョッキを持ち上げたのに反応して、ベプシを注いだコップをコツリと当てる。
「よく頑張ったな」
 あぁ、そういうことかと思った。

 1週間前、箱根学園はインターハイで負けた。

 この店の思い出は、楽しいばかりじゃない。そいえば、野球の試合にボロ負けした日も、野球をやめると決めた日も、オヤジにここに連れてこられたんだと思いだしたら、頭の中がぐちゃぐちゃになった。
「…………」
 父親は何も言わない。
「…………」
 冷えたベプシを飲んでもちっともスッキリしない。
「…………」
 さっきまで荒北を構っていた大将も、女将さんも、他のお客さんの対応をしている。
「…………」
 荒北の視界が揺れて、コップが歪んだ。
「……頑張って、ネェヨ」
 口の中に塩の味が広がった。
「オレァ、フクちゃんを勝たせられなかった」
 テーブルに水滴が落ちる。
「ンデ誰も責めねェンだよ、オレを!」
 両手に力が入って、コップの中のベプシが揺れた。
「オレはフクちゃんの期待を裏切ったンダ」
 父親の大きな掌が荒北の背中に触れた。
「エースを勝たせられなかった」
 背中に熱が伝わってくる。
「エースアシストだったのに……!オレは……!」
 父親の手が温かくて、昔、やっぱり野球で負けた日を思い出して、堪えられなかった。
 子供の頃のように、嗚咽しながら涙を流した。
 あの時のように、父親は、黙って背中をさすってくれた。
 ひとしきり泣いて、ぐちゃぐちゃの顔を、手元のお手拭きで拭った。
 す、と女将さんが新しいものを出してくれた。
 温かくて、手の震えが少し弱まった。
「ありがとうございます」
 父親が荒北の代わりに礼を言うのが聞こえる。
「いいのよぉ。ヤっちゃん、昔は負けるとうちのお手拭きがなくなるまで泣いたじゃない。どうせおうちじゃ強がって泣かないんでしょ」
「親父さんと二人でココにいる時しか泣けないっつんなら、客商売やっててそんな名誉なことはねーよ」
 一人では泣いた。だが、他人に感情を見せるのとは、少し違う。
「……頑張ったとか、結果も出てねーのに言うんじゃネーヨ」
 必死にこらえて出した声は、ガラガラだった。みっともないと思った。
「……例えばだな、靖友。先発の三浦が6回無失点で降板したとして、まぁ、1失点とか、2失点とかでもいい。それでベイスターズが負けたとして、おまえは三浦を責めるか?」
「ハッ。ンでダヨ」
 急に野球の話になって、涙が少しひいた。
「降板したから負けただとか、完投すればよかったのにとか、失点したのが悪いとか、気合いが足りないとか、いくらでも責める要素はあるだろ」
「ねーヨ。三浦はそんなフヌケた選手じゃねーよ。んなもん、三浦が調子いいときに全力で戦ったって勝てねー試合があるくらい当り前じゃねーか」
「そうだろう。おまえは、リリーフ投手も責めない」
「あ?佐々木が投げたって負けるときは負ける。クルーンだって山崎だって救援失敗することくらいあんだろ。それくらいわかってら。チームの勝ち負けなんざ、誰かのせいにできるほど簡単なもんじゃねーよ」
 何のことかわからなくて、とりあえず大将が焼いたモモ肉をかじる。
「父さんはな、同じだと思うんだよ、野球も自転車競技も」
 荒北の手が止まった。
「靖友も分かってるんだろ。それで、チームのみんなもわかってる。だから、誰も靖友を責めない。靖友だけじゃない。他の誰も責めない。靖友が誰も責めていないように」
 どう反応していいかわからず、残ったベプシを飲み切って、もう一本注文する。
「……わかってっけど」
「責められると楽だからな。他の誰のせいにしなくて済むから罪悪感もない。自分のせいだということにして一時反省しているフリをすればいい。何なら逃げればいい」
「…………」
「実はな、江の島の開会式、見に行ったんだよ。嫌がるだろうと思って声かけなかったけどな」
「ハァ!?」
「壇上でのあいさつ、見たぞ。嬉しかったな。靖友がまた、ユニフォームを着て、チームの仲間と笑っていた」
「……笑ってネーヨ。アイツらが浮かれてっから」
「ははっ。楽しかっただろ」
「……アァ」
「で、全力でやり切ったんだろ」
「……ッセ」
「それで十分じゃないか。もちろん悔しいだろう。でも、やり切ったのと負けて悔しいのは別だ。だから、やり切ったことを誇り、思い切り泣いて悔しさを開放してやれ」
「…………」
 父親はそれ以上何も言わなかった。
 荒北も黙って焼き鳥を頬張った。久々の大将の焼き鳥は、記憶していたよりもしょっぱかった。
 大将は新しい串を出しながら、今日は塩控えめの方がよさそうだ、と笑った。
 昔の荒北が書いた「やすともスペシャル」を一通り食べたころ、父親の携帯が鳴った。
「靖友、母さんからメールだ。そろそろ帰るか」
「あぁ」

 夜道を父親と連れ立って二人で歩くのは久々だった。気恥ずかしくて、荒北は少し早足で歩く。
 このまま距離を置こうとしたら、父親から声がかかった。
「あぁ、そういえば靖友、おまえ、自転車始める前、髪を伸ばしていただろ」
「ア?」
「あれな、三浦の真似か?」
「ハッ!?昔の話だろ。知らねーよ!覚えてねーよ!ッセ!さっさと帰んぞ、オヤジ」
「靖友、待ってくれよ、こっちは酒が入っているんだ」
「ッセ」
 荒北は、毒づきながらも少し足を緩めた。
「なぁ、靖友。また、付き合ってくれるか」
「……酒が飲めるようになったらナ」
「そうか、あと少しで靖友と酒が飲めるのか。楽しみだなぁ」

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