A04『茗荷』

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「みょうがは」
 鮮やかな赤い酢漬けのみょうがを器用に箸で持ち上げて福富が言った。
「いろいろと忘れることが多くなるらしい」
「まじかよ寿一食っちまったぜオレ」
 ほとんどすっかり片付いてしまっている皿を前に、新開はごくんと口の中のみょうがをを飲み下す。
「明日小テストなんだ。英語。覚えた単語忘れちまうな」
 さらりと髪をつまんで上を向くと、斜め向かいから東堂がじとっとした視線を寄越した。
「それは俗説だ。みょうがにそんな成分はない」
「そうなのか」
 福富が目の前にかざしていたままだったみょうがを口にする。東堂はうむと頷いた。
「きちんと勉強しとけよ。食べ物のせいにするんじゃないぞ」
 それからそのまま隣を睨んだ。
「まさかおまえも信じているのか荒北」
 席についてから黙々と食事をしていた荒北のトレイには、みょうがの酢漬けの乗った皿だけが手付かずのままになっていた。
「くだんねェ」
 荒北が、け、と吐き捨てるのに東堂は鼻の頭に皺を寄せて怒鳴る。
「ならなぜ食わん!」
「ッセ味がキライなんだヨ!」
「好き嫌いするな!」
「ほっとけウゼェな!」
「なんだと!?」
「まあまあまあ尽八。靖友くんも」
 殴り合いになりそうだったので新開はひらひらと手を振って止める。隣で忙しく視線を動かす福富に制止を求めるのは困難だと察した。
 いらいらと荒北が舌打ちをして首を外にひん曲げる。
「こんなモンで忘れるンだったら腐ってねェンだヨ」
 低い声で言って、椅子を蹴って立ち上がった。みょうがの乗った皿だけをそのまま置いて。
「ごっそーさん。食いたきゃ誰か食えば」
 大股で立ち去る背中を東堂が睨みつける。
「なんだアイツ! 気に食わん!」
「馴れないな」
「馴染む気がないんだろう単に! いつまでああしている気なんだか」
「東堂」
 嘆息した東堂を、咎めるように福富が呼ぶ。真っ直ぐな眼差しを受けた東堂はこれみよがしに息を吐く。
「わかっている! もうしばらくは堪えるが」
 新開は荒北の置いていった紅色のみょうがをつまんだ。きれいな紅色だ。愛車の色より少し薄い。
「でもご飯一緒に食べてくれるようになったよな」
 もっと仲良くなれたらいいのに。思いながら咀嚼する。独特な匂いと甘酸っぱい味が口に広がる。
 
 
 
「みょうがって食うと忘れっぽくなるんだってな」
 細く切ったみょうがの入った味噌汁を啜って新開が言った。
 ちらりと視線をあげたが東堂は何も言わずに箸を動かす。新開の目の前で荒北は吐息だけで笑った。
「ッハ! じゃあオレのも飲むゥ? 忘れてェことあんならちょーどいいんじゃね?」
 がたん、と音が立つ。福富が勢いよく味噌汁の椀を置いている。蒼白な顔をして。
「なに。福ちゃんもおかわりいるの」
「荒北、やめろ」
 たまらず東堂が口を挟んだ。
「なんの信憑性もない迷信だ」
 抑揚のない声が言って味噌汁を飲み干す。
「こんなものなくとも、忘れたいことはいずれ忘れる。そういうものさ」
 けれど福富は指が白くなるほど椀を握りしめている。たぷんと揺れた汁が零れた。
「……だが、決して忘れてはならないことも、あるだろう」
 極限に声を絞ったような悲鳴じみた福富の声を隣で聞いて、新開がうつむいた。
「忘れられるもんならなかったことにしてえよオレは」
 笑いのかたちをつくった顔で、目だけが窪んだように暗い。
「新開」
「うん、悪ィな寿一。わかってんだけどな」
 しん、と淀んだテーブルの雰囲気に東堂がうろたえて唇を噛み締める。
 荒北は具のない味噌汁の椀を傾けて一気に流し込んだ。
「じゃあ忘れンなよ」
 ただの味噌味のお湯なのにみょうがの味が溶け込んでいて、残るえぐみに顔を顰めた。
「こんなモンで忘れちまうようなこたァたいしたことじゃねェ」
 記憶なんか押し込めてでも抱えたままでも、立ち上がろうと思えば立てるのだ。気持ちさえあれば。
 だから早く復活してくれと、夏が終わる前に荒北は待っている。
 
 
 
「みょうが食うと忘れ物増えるンだってよ」
 きつね色の衣を纏ったみょうがの天ぷらをよけて荒北が言った。夏のはじまる夕食だった。茄子とインゲンとみょうがの天ぷら。みょうがは新開の皿に無言で放っている。
「靖友、明日ネクタイな」
「おー覚えてンよ」
 新開と荒北のやりとりを横に見て東堂は首を傾げる。
「ん? 服装検査でもあったか」
 荒北が東堂に箸を向けて唇をめくって笑った。
「ほらなァ忘れた」
「人に箸を向けるな! そんなわけあるかみょうがの話は迷信だぞ!」
 目を吊り上げた東堂へ、新開が天丼にした器をかっこみながら言う。
「卒アルの写真撮影って聞いてないか?」
「明日だったか?」
「明日だな。ネクタイと校章必須。寿一もな。忘れてたろ」
「ム」
 しらじらしく頷いていた福富は話をふられて一瞬箸を止めている。同じく忘れてしまっていたらしい。素直な反応だった。
 新開はけらけらと笑って片目をつむる。
「まあここんとこふたりとも部の方忙しかったもんな仕方ねえよ」
「つーか時間ねェつうのにヨケーなこと多すぎねェ? 取材とか受ける必要あんのかァ?」
 気だるく腕を伸ばした荒北に気づいて福富が傍らから塩のビンをとって手渡した。
「必要だ。求められたら応えねばならない。王者だからな」
「わかんねー」
「みな注目しているのだよなにせこの山神と巻ちゃんの一世一代の大勝負になるからな! しかもこの箱根でだ! 注目せざるをえ」
「東堂塩いる?」
 ぬっと目の前に突き出された瓶を反射で受け取って東堂はむっつり言葉を切る。天ぷらに塩を振って福富に返した。
「まあともかく」
 きらりと力を込めて見渡す。心強い仲間を。
「雑用が多いからといって練習を疎かにしているわけではない。忘れるまいよ。夏はもう来ている」
 最後のインターハイはすぐそこだった。それぞれの力のこもった頷きを目に満足を噛み締めて、東堂はみょうがの天ぷらを咀嚼する。少し塩辛い、夏の味がした。
 
 
 
「みょうがを食すと物忘れがはげしくなるという話があるんだが」
 刻んだしょうがとみょうがの乗った豆腐をていねいに切り崩して東堂が言った。
「江戸の落語で広まったらしいがもとは中国の逸話だそうだ」
 荒北は薬味の乗らない豆腐に醤油をふって舌打ちをする。
「何が言いてェの」
「いや、べつに。……いや、そうだな」
 ふ、と口の端を吊って東堂が静かに笑った。
「忘れないだろう思ったんだ。たとえ本当にみょうがに物忘れの効能があったところで、この夏のことはな」
 切った言葉の端がわずかに震えている。
「忘れられんな」
「そうだな」
 斜めの新開が即座に同意して、真向かいの福富は首肯した。荒北は隣で肩をすくめる。
「……負けちまったなァ」
 切り崩した豆腐を危なげなく口に運んで飲み込んで、福富は唇を引き結ぶ。
「だが、いい勝負だった」
 心からの思いを口にして吐き出した。
 目指した高みへは、届かなかったが。
 福富が再び箸を伸ばした豆腐がべちゃりと潰れた。傍らから微かに嗚咽が漏れ聞こえて、福富はぐうと腹に力を込める。
「……くやしい」
 歯の隙間から新開が唸った。
「バァカ泣いてんじゃねェよ」
 顔を伏せたまま混ぜ返す荒北の声もわずかに濡れている。
「そうだなあ、悔しいな」
 笑いを浮かべて言った東堂の目の端に涙が浮いていて、それを正面から見てしまった福富は咄嗟に俯いた。ごまかすように、口を塞ぐために豆腐を食べた。みょうがとしょうがのツンとした刺激が鼻に抜けて涙が出そうだった。
 夏が終わってしまうのだ。
 
 
 
 
「オレらみょうが食うたびにこんなはなしばっかしてンな」
 くっくっと頭を振って笑った荒北に、新開が小首を傾げる。
「ん? そうだったか?」
 福富はわずかに眉を寄せて荒北を見ている。
「していただろうか」
 東堂は肩をすくめる。
「覚えてないな」
 それから目を剥く荒北に、鼻を鳴らしてしれっと言った。
「俗説だがな。みょうがは物忘れが増えるらしいぞ」
 
 
 

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