A02『寒咲幹』

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ゆるやかな下りにさしかかったところで、ジャージの背に手を伸ばす。来月発売予定だというバータイプの補給食は、幹の小さな手にもしっくりと馴染んだ。
包装の端を軽く噛んでひっぱるが、空かない。厚みのあるプラ素材のせいか、真空パッケージのせいか。
ぐ、っと。もう一度奥歯に力を込めてなんとか引き裂いた。
「うーん。いまいち」
見た目も成分も良さそうだったから期待していたのだけど。0.1秒を削りたいのに、これじゃダメだ。
ペダルを回しながら半分齧る。チョコレートたっぷりのどっしりしたブラウニー、みたいな食感。人口香料ぽくない風味もいい。
パッケージだけがもったいないな、と幹は思った。

愛車から降り、ジャージのジッパーを思い切り良く下げる。ぶわり、と押し込められていた汗と熱気と脂肪の塊が膨らみ、まろび出るような感覚。
毎度のことながら、締め付け感なく、もっとサポート力の高い下着があればいいのにな、と思う。
「ただいま」
通用口から店の中に入る。まず迎えてくれるのはぴかぴかに磨かれた美しいフォルムのフレームたちだ。
KANZAKI CYCLE
それは、幹にとっての我が家であり、誇りだった。
自転車屋として特別広いとは言えない店舗ながら、自転車そのものだけでなく、アクセサリ類からメンテナンス用品まで、選び抜かれた品々が客の訪れを待っている。
「おう、おかえり」
棚の影から、幹の兄である寒咲通司が顔を出した。
「どうだった?」
「固すぎない食管と歯ごたえがいいし、食べやすい味だから数は出ると思うよ。……でも」
「ん?」
「乗りながらだと、パッケージが開け難い気がする。あとでお兄ちゃんも試してみて」
「わかった。お前のおもしろい観点には助かってるよ」
「そうかな? なら良かった」
自転車と、この店が大好きだから。役に立っているのならとても喜ばしい。

「今日も、お店出るね」
その前に、愛車の手入れをして汗を流さないとならない。
店の奥へ進む、その背に「なあ、幹」と声がかけられた。
「お前、本当にいいのか? 自転車競技部のマネージャーで。その、女子部を立ち上げるとかじゃなくてよ」
「うん、いいの! 私が目指してるのは『高校最速』だから」
それはすなわち、全国から勝ち上がってきた強豪チームの集うIHでの最速、だ。
この春から幹の通うことになる総北高校は、規模こそ小さいものの関東屈指の自転車競技部が存在している。OBである兄とともに幾度も観てきた。とても魅力的な走りをするチームだ。速くて、強い。
それでも、今のままでは最速はきっと難しいだろう。
「自転車そのものだけじゃなくて『エンジン』のメンテナンスできる人手が必要、でしょ?」
「エンジンねえ」
幹の表現に、通司は苦笑する。
「とんだ自転車バカだな」
「似たもの兄妹なのよ」
自転車バカは親譲り、兄譲りの筋金入りだ。
もちろん、自分でペダルを回すのだって好きだ。そうじゃなきゃ、わざわざジャージに着替えて貴重な春休みの朝を自転車の上で過ごしたりしない。急な坂を登りきるのも、下りの加速していく風に身を任せるのだって楽しい。
でも、自分達が手を入れた自転車と乗り手が誰よりも先にゴールラインを割っていく光景は、想像しただけで、熱く滾った血の全身を巡るような心地がする。
何にも変えがたい喜びだと、思う。

「高校に入ったら、どんな走りに出会えるかな」
今はただ、そのことばかりが楽しみだった。

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