A01『笑えれば』

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 しばらく手をかけていた扉を、思い切って横に引いた。
「らっしゃーせー!」
 手嶋が意を決して開けた扉の音を掻き消しそうな声量で店員の声が飛んでくる。こちらに向かって動いた空気の量で思わず仰け反りそうだ。引き戻されるように「カウンターへどうぞ」と促されるがまま手嶋が空いていたところに座れば、すぐさま水の入ったプラスチックコップが置かれた。
「お決まりすか」
「醤油ラーメン、大盛り。あと焼豚と煮卵トッピングで」
 軽く返事をするのが早いか、店員は手嶋の注文をカウンター越しに厨房に伝える。奥からは負けじと威勢の良い声が上がった。店内は賑やかな調理の音と、疎らな会話と、雑多な音で満ちている。
 手嶋はカウンターへもたれるように付いていた肘を離し、丸椅子の上に収まると、ふうっと深く息を吐いて顔を覆った。息を吐き切ったまま俯いて固まる。そのうちどうにも息が苦しくなってしまって、両手を離すと鼻からめいっぱい息を吸って、それを吐いた。吸い込んだ空気のせいで、鼻の奥にはさっきからどうしようもなく腹の虫を鳴らすラーメンの匂いがさらに満ちてしまう。カウンターの中からはジュウッと餃子を焼く音がして、香ばしい匂いが立ち昇る。店内には店員の威勢の良い声が飛び交い、時折そばを通り過ぎていく美味そうなラーメン、ラーメン、ラーメン。目から、鼻から、耳から、暴力的なほどそそられる。
 手嶋は思わず膝の上で拳を握り締めた。さっきまで繰り返し登っていた裏門坂の、最後の傾斜が脳裏に浮かぶ。俺は弱い。
 独りぼっちで登る山はどうしたって孤独だった。
 自分に、登れ、と言った先輩は居なくなってしまった。登れという言葉だけ残して。登り一筋という、あの人らしい言葉を残して。
 脳がとろけそうに熱かったあの夏が終わり、秋が過ぎ、ウエアは半袖から長袖になった。視線を落とした先でサイクルジャージに包まれた自分の太腿が見える。練習の後、着の身着のままラーメン屋のカウンターに座る自分を頭の中で俯瞰して、思わず乾いた笑いが漏れた。手にはグローブまではめたままだ。右手を開けば、見慣れた《必》の文字。
 グローブを外しておしぼりで手を拭けば、申し訳なくなるほどおしぼりが黒く汚れた。土埃でぎしぎししていた手指は幾分すっきりしたけれど、拭いた両手のひらを嗅いでみたら、まだラバーの匂いが取れずに残っていた。
 まだ全然走ってねえだろって、その匂いが訴えてるみたいだ。
「ハイッ、お待たせしました醤油ラーメン大盛りです」
 びくりと背中が震える。手嶋はその声で反射的に、前のめりになっていた体を後ろに引いてテーブルの上を開けた。勢いよくラーメンの器を差し出した店員は、しかし一滴のスープも溢さずそれを手嶋の前に置く。ほくほくと湯気の上がる、器の縁ぎりぎりまでスープで満たされた醤油ラーメン。その匂いにすべての意識がぐらりと吸い寄せられた。部活の後、裏門坂を登って、登って、もう汗の一滴だって搾り尽くしたカラカラの体に、凶暴とも取れそうなほどの食欲が腹の底から湧いてくる。思わず目の前の割り箸立てからさっと一本抜き取る。二つに割ろうとしたその手を、手嶋はぐっと握りしめて止まった。
 自分は本当に、一人じゃどうしようもなく弱い奴だと思った。箸を握る手が震える。嗚呼、手嶋純太。お前ってやつは。手嶋は割られず中途半端に広がってしまった割り箸を握りしめたまま、目の前のラーメンを悔しそうに見つめた。
 独りで登り始めてからずっと、この店には来ていなかった。登るために作っているこの体に《これ》を入れてもいいのか、手嶋はずっと迷っていた。
 このラーメン屋は、田所さんに教わった店だった。青八木と二人、かじりつくように何とか強くなる術を、一秒でも速くなる術を掴みたくてもがき始めたあの頃。田所さんはよく練習後に反省会と称してここに連れてきてくれた。
「食えよ。食えなきゃ戦えない。身体が出来てなきゃチャンスが来たって競り勝てない。ちゃんと食え。ちゃんと食って、ちゃんと寝て、死ぬほど回せ」
 田所さんの言葉はシンプルだった。そしてとても力強かった。食えと言われて無理矢理胃に詰め込んでは、何度胃が受け付けなくて吐いたかしれない。このラーメン屋の帰りもそうだ。初めの頃は特に、家まで我慢できなくて青八木と別れた後すぐに道端で吐いたっけ。登りはじめてから食えなくなっていたせいか、そんなことを思い出す。
 登るなら、絞らなきゃだめだよなと青八木に漏らしたら、純太は筋肉量が足りないから、持久力上げるのと一緒に筋肉量も上げろと真顔で言われた。ぶれそうになる気持ちを引き戻してくれるのは、いつも真っ直ぐな青八木の言葉だった。
 食えない理由を山のせいには出来なかった。
 登るほどそげ落ちる様に削られていくこの身体は、持ち主の意思なんて置き去りにどうしようもなくエネルギーを欲してる。
 目の前に置かれたラーメンの湯気が頬を後から後から撫でていく。鼻から入って喉の入り口までめいっぱい美味そうな匂いで満たしていく。いっそ暴力的だ。その存在の全てで、食え、食え、食え、と全力で殴られる。
――ちゃんと食え。ちゃんと食って、ちゃんと寝て、死ぬほど回せ。
 手嶋は手の中の箸を割った。ぱきん、と割れるその音が合図みたいに、むしゃぶりつくようにがっつりすくい上げた麺を口いっぱいに頬張った。息を吹いて冷ますのを忘れた。舌先が触れて火傷した。構うか。口いっぱいに頬張る。もやしと麺が半々になって口の中に押し込められる。思い切り噛み締めた。もやしと麺をやっつけるみたいに噛んで、噛んで、飲み込んではまためいっぱい頬張って噛んで。
 ラーメンを食べるといつもこうだ。鼻をすすって、それでも箸は休めたくなくて、邪魔すんなよって思いながら鼻をすすって、麺を頬張って、嗚呼ちくしょう、邪魔すんなって。
 瞬きをすれば歪んでいた視界がクリアになって、目頭から落ちたそれはスープの上でぼたりと弾けた。滴になりきらなかった涙が頬を伝う。手嶋は俯いたままカウンターの端にあったボックスティッシュを引き寄せて洟をかんだ。頬を濡らした涙の筋も手の甲で拭って、また箸を手に残りの麺を勢いよくすする。また鼻がつらくなる。かんで、食べて、またかんで。焼豚は田所さんがよく奢ってくれた。煮卵は青八木が「純太はもっと食え」とよく皿に乗せてくれた。泣きながら食べたラーメンの味は、前にレースで負けた後、泣きながら青八木と食べたラーメンと同じ味がして懐かしかった。
 麺の一本まで残さず食べ切り、箸を置く。ふうっと息を吐いた腹の底で田所さんが、よし、と笑ってくれた気がした。
「ありざっしたー!」
 店を出て引き戸を閉めると、ぴしゃん、と小気味いい音がした。なんだか背中を張られて励まされたみたいだった。
 見上げた空には澄み切った空気のずっと向こうに、あと少しで満ち満ちそうな月が浮かんでいた。その隣には、寄り添うように一番星。すん、と吸い込んだ空気はすっかり冬の匂いがして、キャノンデールを手にした手嶋はカラカラと回る車輪の音を聴きながら坂を下り始める。月明かりが二つの細い影をこっくりと道の上に落としながら、ゆっくりと坂道を下っていく。
 

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