【F01】きっと海にいる

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 窓ガラス越しの空は、色褪せて見える。青は鈍く、雲がのっぺりと貼り付いていた。太陽は、まるで静止画のようだ。
「予定通り終わらなかったので、次の授業は早足で進めます」
 授業の終わりを告げる教師の声が一際大きく響き、真波は、黒板に視線を戻した。タイミング良くチャイムが鳴る。これ幸いと、窓側最後列の自分の席からゆらりと立ち上がった。緩慢な動作のせいか、目立つこともなく廊下へと解放される。昼休みを迎えたざわめきから逃れるように足を進めた。
 一階へ降り、昇降口の開け放たれた扉から外を見る。梅雨はどうしたのか、日が燦々と降っていた。誘われるままに外へ出て、息を吐いて、そして吸う。酸素が身体に染みわたるようだった。校庭から校舎に戻る流れとは逆に歩いていく。少しして、さすがに暑いと気付き、日陰を探す。グラウンドの水分はすべて蒸発したように見えた。そこを避けて、ゆらゆらと歩いていく。
 辿り着いたのは、体育倉庫の裏だった。建物の陰のそこは、周りを木々に囲まれている。揺れる木陰が心地好かった。光がゆらゆらと降りてくる。木々の合間に見える空は、濃い青で、雲は堂々と立ち上っていた。真波は、コンクリートの地面に座り込み、木の葉がさざめくのに耳を傾ける。鳥の囀りや虫の飛翔音もあちこちから聞こえる。校舎のざわめきは、もう遠くだった。
「お前、何してんだ?」
 訝しげな声にはっとして振り返る。どうして気配に気付かなかったのか不思議だ。建物の陰から顔を出してこちらを覗いているのは、よく見知った大柄な男だった。その眉を寄せた表情が似合っていて、真波は思わず笑いかけてしまう。
「バシくん」
 運動着を着た銅橋の額には、汗が滲んでいる。どうやら体育の授業終わりらしい。「どうしたの」と問い掛ければ、「それはコッチの台詞だ」と呆れた様子ながらも続けて説明してくれる。銅橋にそういうところがあるのは、真波もすっかり知っていた。
「ボール片付けてたらフラフラ歩いていくのが見えたんだよ」
「ああ、なるほど」
「メシ食わねェのか?」
 銅橋は、そのたくましい腕で額の汗を拭いながら、真波の隣に腰を落ち着けた。「座るんだ」と真波が小さく笑うと、聞こえなかったのか「ア?」と視線を寄越す。
「ご飯は、あとで食べるつもり」
 そう答えて真波は空を見上げた。太陽にうっすら雲がかかっている。訊ねてきた銅橋は、「はぁ」だか「ほぉ」だか、さして興味もなさそうに相槌をうっていた。
「バシくんこそ、食べなくていいの?」
 真波が「昼休み、しかも体育終わりでしょ」と付け足すと、また銅橋から「あぁ」だか「おぉ」だか、気の抜けた返事が聞こえてくる。
「そっか」
 別の質問を投げ掛ける気にはなれず、そのまま沈黙が広がる。木々の揺れる音や遠くの声が耳をなぞった。太陽は、雲を透かしている。その柔らかになった光が、木の葉の合間から真波の肌を撫でていく。居心地は、悪くなかった。
「何かあったのか」
 疑問系になりそこねた言葉が横からこぼれてくる。銅橋のほうを見ると、眩しそうに空を見上げていた。真波のほうに視線を寄越しもしない。それでも、耳を傾けているらしいことは分かった。
「何かってほどじゃないんだけど」
 意識して口角を上げる。声が幾分明るい調子になった。真波は、言葉を切って銅橋の様子を伺うが、特に変化は見られない。それなら、と話を続ける。
「さっきの授業で、課題の提出率が悪いって怒られちゃって」
「ハァ?」
「あ、オレだけじゃなくてクラス全員ね」
「……お前、そんなこと気にするタチだったか?」
 目を丸くした銅橋と視線が合う。真波が「いや、気にしてないよ」と笑えば、「いや、少しは気にしろよ」と顔をしかめられた。
「授業時間の半分くらい使って怒られたんだけど」
「お前のクラス、どれだけ課題提出してねェんだよ」
「最後らへんに先生が言ったんだ。君らは井の中の蛙にすぎない、って」
 いつの間にか、真波は、膝の上に緩く組まれた自分の手を見つめていた。
「それ聞いたら、急に……いや、正直、よく分からないんだ」
 真波自身も、この感情をどう捉えればいいか持て余している。ただ少し息苦しくなった。お気に入りのはずの窓側の席から見える空が褪せて見えた。ベッドから見上げる空と同じような色に見えてしまった。ただ、それだけだ。
「広い世界にいると思ってたんだけどな」
 真波は、指先が日に焼けた自分の手をじっと見つめた。木洩れ日が手の甲を遊んでいく。その光が儚げに見えて、真波はゆっくりと瞬きをした。
「井の中の蛙大海を知らず」
「うん」
 銅橋の声で言われると、どこか可笑しい。真波は笑おうとしたが、自分の唇が少し震えたことに気付いた。ぎゅっと両手を握りしめる。
「されど空の高さを知る」
「……え?」
「って続きがあるんだってよ。ま、俗説らしいけどな」
 思わず銅橋の横顔を見つめた。銅橋の視線はまた空へと戻されている。細められた目は、眩しさのためというよりも睨みつけているようだ、と真波は思った。
「狭い世界でも、極めればいい」
 銅橋の声は、力強い。噛み締めるような響きは、真波の鼓膜を震わせた。「井の中の蛙大海を知らず、されど空の高さを知る」と心の中で何度か繰り返す。そして、空を見上げた。木で囲まれた先に、濃い青がどこまでも続いている。それを見ているうちに、真波は、張りつめていた糸が緩んでいくような感覚を覚えた。深く息を吐き出して、目を閉じる。目の奥が熱くなっていた。
「って言って励ましても、意味ねェか」
 しかし、銅橋は似合わないおどけた声色で、場の空気をなかったものにしてしまう。真波が「え」と口を半開きにするのも構わず、銅橋は自分の太ももを叩いた。体育倉庫裏に良い音が響く。
「あくまで俗説だしな。それに空の高さだったか青さだったかもよく覚えてねェ」
「えぇ?」
 すっかり気が抜けてしまった真波が、「オレ、感動しかけてたのに」と付け足す。銅橋は「悪ィな」と悪い顔で笑い、真波の肩を叩いた。音の割りには痛くない。
「ま、自分がどこにいるかなんて、自分で決めるこった」
 暑さを帯びた風が吹いた。木の葉の揺れる音がする。真波は、立ち上がろうとする銅橋を見上げていた。ゆっくりと体に力を込めていくのが分かる。立ち上がった銅橋が、真波の前に来て振り返った。光を背にして、たくましいシルエットが浮かぶ。
「ただ、真波。少なくとも、オレからすればお前は海にいるぜ」
 その瞬間、全ての音が止んだ。真波には、そう思えた。
「馬鹿みてェに広い海で、自由に泳いでる」
 銅橋が笑う。鼓膜が震動を再開した。木々のさざめき、鳥の囀り、虫の飛翔音、それらが真波に流れ込んでくる。
「じゃあ、オレはメシ食いに行くわ」
 銅橋が手を挙げた。しっかりとした足取りで校舎のほうへと歩いていく。真波は、すっと息を吸って、そして慌てて立ち上がった。
「バシくん!」
 追いかけた先の銅橋は、思ったより進んでいた。そのため、自然と呼び止める声量が大きくなる。銅橋が足を止めるのを見ながら、真波は自分のシャツの左胸のあたりをぎゅっと掴んだ。
「バシくんも、海にいるよ。きっと、海にいる!」
 光の速さを超えるほどの声を出した。久しぶりの大声だ、と真波は清々しい気持ちになる。嬉しくなって笑いかけたが、銅橋は顔をしかめていた。
「それはオレが決めるこった!」
 銅橋の答えは、同じくらいの大きさで返ってきた。そのしかめっ面の口角が少し上がっていることに気付いて、真波は前へと踏み出した。目の前に広がっている空は、鮮やかな青だ。それを視界に入れた途端、空腹を感じた。
「やっぱり、おなか空いたや」
 真波は腹のあたりをさすって、それから銅橋に駆け寄った。風がまた強く吹く。波に似た音がしていた。空は、どこまでも高く続いている。

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