- 縦書き
- A
- A
- A
- aA
- aA
「くだらねェと思ったら、笑い飛ばしてくれていいから」
それを文頭に置いて、靖友は話し始めた。むかしむかしあるところに、一人の男の子がいました。それから始まる物語に、笑える部分なんて少なくとも俺目線ではひとつもなかった。家族との微笑ましい会話に胸が暖かくなった程度だろうか?その小さい身体でがむしゃらに球を投げて、頑張り尽くした男の子の夢が目の前でちぎられる話。まるで喜劇を語るような口調だったのに中身はとんだ悲劇だった。けれど何よりも一番悲劇なのがこの物語はきっとこの荒北靖友という男の過去の話であることだろう。俺はこれが本当の悲劇ならどれだけよかっただろうかと思わずにはいられなかった。だって悲劇なら、物語ならその男の話は良くも悪くもそこで終わるのだ。筆者が続きを書かなければ救われることもないけれどこれ以上地獄を引き摺ることもない。けれど靖友の物語は靖友の人生だ。そこで終わることはなかった。壊した腕を自分を野球を全部を憎んでだけど憎みきれずに自分に周りに八つ当たりして這いずるように生きなければならなかったんだ。今はぎゅっと握られるその手も筋肉のついた腕もうっすらと残る傷が叫びだしそうなほど痛々しく見えてこちらの胸もなんとなく痛む。
「なァにお前が痛そうな顔してんだよ」
明るく笑う顔と軽く叩かれる手がとても優しい。けれどその話は続けられた。悲劇で終わらなかった靖友の話だ。それは影の話。野球をしていた時からずっと靖友の隣にいたという影。練習が終わったあとも自主練に付き合ってくれたのは影だけ。投げると壁に跳ね返って戻ってくるボールを一緒に見守ってくれるそいつはけれど野球をやめた後もずっと隣にいて靖友と同じように道を外れていって。だけど見捨てることなく腫れ物扱いをすることもなくずっと隣にいてくれた影の話。それに少なからず心を救われたという靖友の与太話だ。
「笑うだろ?自分の影にも俺は救われたんだ」
俺はその話を聞いた時に心臓が飛び上がるような心地になった。だって俺も同じだった。あのうさぎがうさぎを俺の手でうさぎが△んだ日。自分の中にあったなにかが△んでしまったあの日俺は自分の影を見ながら何もかもを信じられなくなっていったのだ。影は話さない。意思も持たない。当たり前だ。だって影なんてものはただ光を自分の身体で遮った下に出来る暗がりのこと。隣にいるのも当たり前だ。それを生み出す光があるのだから。そう 当たり前なのだ。影があるなら光がある。心の底ずっと深い深い陽の当たらない深淵にひとりぼっちでいるような時にでも影はそこにいた。つまり見ようとしなかっただけで光はずっとそこにあったのだ。そしてそれを教えてくれたのは紛れもなく自分の影なのだ。自分はひとりじゃない。靖友はひとりじゃないし寿一も尽八も誰もみんなひとりじゃないのだ。
「靖友、くだらないと思ったら笑い飛ばしてくれていいから」
笑わねぇよという言葉の優しさが胸に染み込んでいく。帰るかと俺が言うと靖友も立ち上がって歩き始める。その後ろには細長い影が伸びている。当たり前でなんてことない光景。けれど悲劇と喜劇を影と共に過ごした俺たちはその影を愛しく思う。そしてそれからもこれは続いていく。辛いことがあっても死にたくなることがあっても悲劇として終わりはなく人生も光も最期のその時まで続いているからだ。