【G03】影踏むばかり

  • 縦書き
  • aA
  • aA

はあ。はあ。息があがる。ひっきりなしに汗が流れる。夏休みももう間もなく終わろうというのに、陽射しは容赦なく照り付けている。
 インターハイを終えて、三年の先輩方が引退し、俺たちの代に代替わりをした。でも正直、万年補欠以下の自分には、あまり関係のないことだ。この箱根学園でスポットが当たるのは、いつだって実力者だけ。インハイで補給部隊にも入れなかった居残り組に出番はない。ただ只管練習を積むだけの日々。
 
 今日のメニューは、山だ。山のスターぞろいの箱根学園で、口に出すのも烏滸がましいけど、俺も一応クライマーだ。当然、山は好きだった。とはいえ、炎天下の中、ヒルクライムコースを何度か行き来すれば、さすがに息苦しくなってくる。そろそろ、水分補給をしなければ。走り慣れた箱根のこのコース。もうしばらく行けば、休憩所がある。
 休憩所の入口すぐ近くにロードバイクをとめ、ドリンクボトルを手に取り、一気に飲む。意図せず、はあ、と声が漏れる。あっという間に空っぽになってしまった。駐車場脇の自販機に急いで駆け寄り、スポドリを買い、ボトルに移してほっとすると、少しだけ休憩しようという気になった。ちょうどよい木陰を見つけたのでそこに避難する。フゥ、とひと心地つきながら、また冷たいドリンクで喉を潤した。
 こんな小さな木陰でも、体感する温度は全然違う。一気に熱が下がったようだった。
 木陰から見る世界は、嘘みたいにクッキリと、明るく眩しい。まるで、境界線があるかのよう。あちら側とこちら側。別世界だ。
 
 ああ。俺は影だな。
 暗い中にひっそりといるだけの、影。眩しいあちら側に行くことをどんなに望んでも、こうして見ているしかない。こちら側にいる自分のことなど、太陽は気にも留めない。
 
 ふと、卒業していった二つ上の先輩のことを思う。青空がよく似合う、太陽のような人。いつだって堂々として、輝いていた、山神と呼ばれた先輩。
 カッコいいといえば新開さん。男らしいなら福富さん。イケメンといえば黒田さんだし、可愛らしいなら真波。形容詞で計るなら、あの人以上の人だっていた。それでも、俺にとってあの先輩は特別だ。
  倒れるまで走る、というようなガムシャラなタイプではなかったけれど、自転車への情熱はゆるぎなく、どんな努力も惜しまない。その真摯さに圧倒され、レース中の走りに魅了された。親しく話したりはできなかったけれど、それでも、自分なんかの名前も覚えてくれた。
 あんな風になりたい。いつか、俺だって。身の程知らずだったなぁ、と今では思う。でも、純粋に憧れた、あの頃が懐かしい。
 
 すると、突然目の前に濃い影ができた。
「あっれー?こんなとこでサボり?」
 聞きなれた声に顔を上げると、自分たちの代の太陽・真波がそこにいた。
「違う!休憩してただけだ!」
「あはは、一緒じゃん。隣、いい?」
 真波はいつだってマイペースで、ちょっと苦手だ。調子が狂う。
「なあ、レギュラー組、今日は平坦じゃなかった?」
「こんな気持ちのいい日に登らないなんてもったいないでしょ?」
「…お前さぁ。そんなんじゃ、また黒田さんに叱られるぞ」
「東堂さんもきっと、こんな日は絶対に山だって言うだろうなぁ」
 東堂さん。
 その言葉に、動きが止まる。
 そうだ。東堂さんも真波もこちら側の人間じゃない。あちら側の、明るい光の下を行く人。どうしてここにいるんだ。俺の欲しいものを持ってるくせに、何を言ってるんだ。
 急に惨めな気持ちになって、卑屈な気持ちが露呈した。
「真波、お前はもう部をまとめていく立場なんだから、早く戻れ。俺なんかに構うな。」
「え?」
「だから!いてもいなくてもいい、影みたいな俺といたって時間の無駄だろ!どんなに走ったって追いつかないんだ!東堂さんのすぐ隣で、ずっと走ってきて、認められて、託されたお前と俺なんかとじゃ、全然違うんだよ!」
 完全な八つ当たりだった。そう思うのに、勢いづいた言葉は止まらなかった。
 気まずくて、顔があげられない。
 このまま、戻ってくれたらいいのに。でも、隣から気配は消えない。
「…昔東堂さんに教わったんだけど、影があるのは、光が当たってる証拠なんだって」
「…は?」
「あとね、光が濃いほど影も濃いらしいよ」
「…なんの話?」
「さっき、自分のこと影って言ってたけど、光と影は表裏一体?なんだって。だから、影があるところには、必ず光があるんだ。だからさ、だから…あれ?何言おうとしたんだっけ?」
「…なんだよ、それ」
 そう言いながらも、言葉が沁みる。影があるのは、光が当たっている証拠。それならば、こんな俺にも、光は当たっているのだろうか。
「東堂さんの隣か。確かにすごく近くで見てたけど、全然追いつけないんだ。年々凄さがわかるって、ちょっと悔しいよね、へへ」
「…立ち寄らば影踏むばかり近けれど誰かなこそのせきをすゑけん」
「え?なにそれ」
「…影を踏んでしまいそうなくらいに近くにいるのに、誰が邪魔してるんだ、全然近づけないじゃないか、みたいな意味のうた。」
「ああ、ほんとそんな感じ!俺も早く東堂さんの影踏みたいなぁ」
 真波が笑う。相変わらずマイペースだ。でも、嫌いじゃない。かもしれない。
「俺もいつか、真波の影を踏んでやる」
  真波のすぐ隣。
  聞こえないように、小さな声でつぶやいた。

×