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インターハイはオレたち箱根学園の敗北で幕を下ろした。
悲しんでいる暇なぞなかった。撤収準備やコースのゴミ拾いなど仕事は山積みだ。
突然今井さんから電話があった。救護テントにいる2人の様子を見てこいと。
なんて声を掛けようか重たい足を引きずってテントを訪れると、そこはもぬけの殻だった。泉田は作業の手伝い、荒北さんはふらりと出てしまったらしい。
とりあえず荒北さんを探すことにした。どこかで倒れていたら目覚めが悪い。
ふと自販機に見慣れた飲み物があって購入した。
ボトルを振らないように注意しながら湖畔を歩いていると、縁石に腰を下ろしている黒のタンクトップが見えた。
「お疲れ様っす」
声を掛けると、荒北さんはゆっくりと振り向いた。泣いていたのかと少し期待したが、特段変わった様子はなかった。
そのままベプシを差し出そうとして、やめた。キャップを外して渡す。その様子に荒北さんが苦笑した。
「気が利くじゃネェか」
「飲みたいんじゃないかなって」
「金がネェから飲めなくって困ってたンだわ。座ればァ?」
「はぁ」
みんなが作業しているのに、座るのは気が引けた。だが、上級生の指示ならしかたない。そんな言い訳をして、腰を下ろす。
何を話せばいいのかわからなかった。横顔を見るのが怖くて、ずっと湖を見ていた。昼頃に比べ、幾分か柔らかくなった日差しが水面に反射する。
もっとこの人は感情的になっているかと思った。高校生活をこの3日間に捧げたと言っても過言ではないだろう。それくらいの入れ込みようだった。なのに、荒北さんは隣でぼんやりとベプシをすすっている。
「あと30分くらいしたらバスが迎えに来てくれるそうです」
「りょーかい。なんか実感わかネェな」
でも、負けたんだよなと小さく呟いた。
「負けました」
「だよなァ。3日間の記憶が残ってネェわ」
そういうものなのだろうか。あれだけ密度の濃い3日間だったのに。もしかして落車時に頭でも打ったのだろうか。
コブでも出来てないかと心配になったとき、携帯電話が鳴った。何気なく取り出すと、今井さんから全部員に写真付きのメールが届いていた。表彰台に上る東堂さんと福富さん。2人とも唇を噛みしめながらも、前を向いていた。
荒北さん、と携帯電話を渡すと、荒北さんは訝しげに受け取り、息を飲んだ。
「福ちゃん……東堂ォ……!」
荒北さんの目が潤んだかと思うと、一気に涙が溢れてきた。ぽつり、ぽつりと落ちた涙がコンクリート上の暗い影と同化する。
今この瞬間に、この人のインターハイは終わったのだと直感した。長く厳しい旅の結果がこんなに苦しいものになろうとは。
丸まった背中が震える。その背中をさするろうと浮かべた手を握りしめた。この人のプライドの高さは、オレの手のひらを煩わしいとしか思わないだろう。
代わりに骨が浮かぶ薄い背中に誓う。来年オレたちが表彰台に立つことを。
インターハイはオレたち総北高校の優勝で幕を下ろした。
閉会式が終わるとすぐにオレたちは撤収作業に取りかかり、汗だくになりながら作業を終えた。
交通規制が解かれたらしく、次々とバスが駐車場から出て行く。オレたちも早く帰りたいところだが、先ほどから取材は引きも切らない。
ステージの脇でインタビューを受ける6人の姿に、寒咲さんはオレと青八木にジュースを渡すと、「当分帰れねぇな」と苦笑した。
駐車場の隅、ちょうどコースが見下ろせる場所に腰を下ろした。
「あー生き返るー」
容器に汗をかいたスポーツ飲料が体の細胞にしみわたる。青八木も喉を鳴らしながら飲んだ。
日陰に入ると、山特有の爽やかな風が日差しで火照った体を冷やした。それでも体の奥で勝利の熱が居座ったままだ。
あの小野田がまさか優勝しちまうとは。
記者に囲まれている小野田を見やる。あたふたとしているが、ちゃんとインタビューに応えられているだろうか。
「応援しすぎて、喉痛ぇわ」
「オレも」
「青八木も最後のゴール叫んでたよな」
こくこくと青八木が頷く。
明日のことなんて気にしていなかった。喉が張り裂けても構わなかった。ただひたすら叫んだ。
この声援がどれほど力になるのか、正直声援を受けたことがないオレにはわからない。だが、声に出さずにはいられなかった。
青八木がぴんと人差し指を立てた。オレは頬を緩める。青八木のその仕草からオレたち2人の関係が始まったのだ。そのまま青八木は真剣な顔をして、眼下に立つゴールを指さした。
「来年はオレたちが応援される側だ」
青八木の強い言葉に、疲労で丸まっていた背筋が伸びた。
ゴール。そして、そこに繋がるコースを見つめる。
だが、視界に収まるコースなどごく一部だ。風が行く手を阻む海沿いの平坦を、歩いて登るのもキツそうな山道を、ブレーキを掛けたくなる急な下りを選手たちは3日間走り続けてきた。
インターハイの3日間、ずっとそばで見守っていたからこそ、不安になる。オレはインターハイに出て、足を引っ張らないだろうか。そもそもインターハイに出られるのか。
すっと体温が下がった。落ち着こうとペットボトルのキャップをひねろうとした瞬間、するりとボトルが手から滑り落ちた。
アスファルトの上を転がっていくボトルを呆然と見送っていると、青八木が立ち上がり、拾った。困ったようにボトルを見つめると、何を思ったのか突然Tシャツで拭き、オレに差し出す。
「あ、悪い」
青八木の黒のTシャツが拭いた部分だけ白くなっていた。どうやら土埃で汚れたペットボトルを拭いてくれたようだ。
なんでもないように青八木は首を振って、再びオレの横に座った。
その姿に思った。
きっとこれからオレは青八木にさんざん迷惑をかけるだろう。レースで足を引っ張るかもしれないし、立てた作戦がうまく行かないこともあるかもしれない。それでも、青八木がフォローしてくれるだろう。なにせオレたちはチームなのだから。
大丈夫。青八木がいれば、きっと大丈夫だ。
「インターハイ、頑張ろうな」と口を開こうとして、考え直した。そんな抽象的な目標でどうする。
「優勝するぞ、インターハイ」
優勝の言葉は思っていた以上に重かった。緊張で声がかすれた。これから1年、オレたちはインターハイ優勝校の看板を背負わなければならない。
でも、1人で背負うわけではないのだ。青八木がいるし、オレなんかよりもよほど強い1年がいる。
「ああ、純太。連覇だ」
青八木の自信満々の顔に笑って、どちらともなく拳をぶつけ合った。
「あー早く帰って走りに行きてぇな。この3日間、ろくに自転車に乗ってないし。明日走りに行こうな」
「わかった」
どうやらインタビューも終わったようで、小野田たちが戻ってきた。ようやく帰れるかと安堵のため息を漏らして、立ち上がる。
ふと足下を見ると、濃い影があった。
「なあ、影送りって知ってる?」
すぐにオレの意図を察したようで、青八木が頷いた。
太陽を背にして、並んで立つ。ポーズなんてとらない。コンクリートに落ちた黒い影を見つめた。オレより頭1つ分小さい青八木だが、太股の太さはスプリンター特有のものだし、ふくらはぎも綺麗に筋肉がついている。
「10秒だっけ?」
「ああ」
「じゃあ、10、9、8……」
オレのカウントに青八木の声が重なる。目に影を焼き付ける。
「3、2、1、0!」
同時に顔を上げた。抜けるような青空が目にしみる。
「見えた?」
青八木がニヤリと唇の片端を上げた。
「見えた。黄色のユニホーム着てるオレたちが」
「オレも見えたよ。トロフィー持ってたな」
「純太、頭に花輪載せてた」
「似合ってた?」
「あんまり」
「なんだよ、それ」
2人して顔を見合わせて笑う。遠くで寒咲さんがオレたちに手を振るのが見えた。どうやら出発らしい。
再び2人で空を見上げた。
黄色のユニホームを着た6人が並ぶ。オレの頭には花輪が載っている。青八木がトロフィーを掲げ、今泉と鳴子と小野田が3人で手を繋いでいる。
「最高の光景だな」