【D05】魚影

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「ワシ、やっぱり船に乗りたい」
 憑き物でも落ちたように浦久保は心の裡を語るようになった。
 空気が読めると嘯く男は、暗黙のうちに期待される振る舞いの価値をかけらも信じていなかった。欺瞞に欺瞞を塗り重ねて策士を気取っていた友人は、自らの行動が意図せず庭妻に不利益をもたらしたことを知るや否や、巧妙に人柄を演じるようになった。そもそも非難の原因となった攻撃こそ彼自身の混乱の末の付帯に過ぎないが、この捻じれの解消を怠ったまま表を繕うことに長けた浦久保は、手の施しようのない極上の悪漢として夏のインターハイの一戦を支配したのである。
 もっと早くに正してやればよかった? いや、あのインターハイの、あの局面だから、想いは届いたのだし、いまに繋がったのだ……そもそも自分は当時「彼の思うままにさせてやればいい」とさえ思っていた。非難を受けざるを得ない彼の純粋性に同情して、のびのびさせてやるのが「唯一の理解者」である自分の務めとさえ確信していた。
 これが思い違いに端を発していることさえ気づかぬまま。
 界面に膨れ上がる噴水のようだ。浦久保は角形2号の、たわみ、膨らんだ封筒を、男の体格には小さい机に積み上げる。校庭には部活動に励む下級生たちの声が反響するが、各々進路を決めつつある三年生の校舎は人影が少なく、教室はただのふたりぼっちだ。秋分をとうに過ぎた今日、午後四時も回るとひときわ夕陽の熱が濃い。
「優策?」
「ワシ、やっぱり船乗りたい。そもそも、じゃ、そもそも」
 あの浦久保が終業の鐘と共に自ら担任に声をかけた。庭妻は目を疑った。策士の仮面もなく、心細いような無表情で、淡々と何かしらを担任に語り掛けている。すると教師も目を丸くして、干物でも噛むように俯き、間を置かず快活に笑ったのだった。「そうかあ! 浦久保、そういうことなら、わかった」……あのときの担任と、はたして同じように祝福できるだろうか、心から。
「ワシ、もう子どもじゃないし。船に乗ろう思えば父ちゃん関係なく乗れるし。で、乗るためにゃあ、免許とらにゃあいけんことに気づいた」
「そうじゃのう」
「船の免許とりたい。で、漁がやりたい。それで、漁やるためにゃあ、えっと許可やら、法律やら、知らにゃあいけんらしい」
「そういうもんか」
「じゃけぇ、庭妻、どの学校がええ思う?」
 ばっさんばっさん封筒から溢れだす冊子に、庭妻は引き結んだ唇のへりを押さえた。(はたして同じように祝福できるだろうか、心から?)
「……読んでみんとなんとも言えんが……優策、親父さんはなんて?」
「しらん」
「ん?」
「父ちゃんにゃあまだ見せとらんし、言うとらん。漁なんて、イマドキ食べられん、なんて言われたら腹立つけぇ」
「ああ……」
「父ちゃんより庭妻のほうがええワ」
「でも、優策」
 はたして自分はその信頼に値すべき人間だろうか。
 腹いっぱいに食事を掻き込んだあと覚える胃痛のように、充実したインターハイが終わってからというもの、庭妻はひとつ後悔を抱いている。
 このところ友人は憑き物でも落ちたように心の裡を語るようになった。獲物を噛み砕く鮫ではなく、喉仏を裂いた供物を主人に見せびらかす猫でもない。それは花壇にひとり水を注ぐ、庭妻が視線を奪われた、あの優しい子どもそのものだった。だからこそ庭妻はえも言われぬ胸のさざなみを自覚する。―――あの戦いまで、自分は彼本来の優しさを引き出してやれなかったではないか。
 彼の純粋性と攻撃性は決して分かちがたい表裏一体のものではなかった。
 たとえば、忘れもの癖のある、雨に濡れる少年に対して、誰も己の傘を差しださず、そのうえ傘の並ぶ店まで手を引かなかったようなものだ。
 少年自身もまた、雨に濡れることはむしろ好きなほうだったし、傘に入ることを望んでいないようにさえ見えた。周りも「本人がいいなら好きにさせよう」と寛大のふりをした怠慢を貪った。その結果、少年はどうなったか? SOSを発信する術を持たない浦久保を、庭妻は美しい夢で彩って、その悲惨から目を逸らしていたのかもしれない。……。
「……顔色が悪いのぉ」
 眉を下げる友人は優しい。
「インハイ終わってから庭妻は元気ない」
「そうか?」
「庭妻が元気ないと、ワシは悲しい」
 真に迫る物言いに思わず笑ってしまう。
「えらい口説き文句じゃのぉ」
「茶化すなぁやめてくれ」
 おお、あの浦久保がちょっぴり反抗的じゃ。
「……正直、今までは自転車乗るのが楽しゅうて、でも自転車の先にあるものが見えんで、自分でも何がしたいのかようわからんかった。待宮先輩のことも好きじゃったのに。まさかあんなんになるなんて」
「優策、それは」
「ああ、わかっとる。ありゃ〈よくないこと〉じゃ。われにも怒られたけぇ、わかっとるつもり」
相変わらず危うい物言いの友人に不安が過らないわけではない。
「でも単純な話じゃった。初心に帰ればよかった。ワシは漁をする親父が好きじゃった。でも、漁じゃイマドキ生活できんって聞いて、それが現実と思い込んどった。ガキじゃのぅ。親の言うこと、真に受けて……」
 西日に黒目が爛々と輝くのを見た。窃視の胸騒ぎがして、気まずさに視線を逸らした。
「でも、ワシは……嵐の海も、夜の灯に浮かぶ魚影も忘れられん」
「ぎょえい?」
「見たことないか。庭妻? 海面から見える魚の影じゃ。被せた網のなかで蠢くえっとの影。海なんて別世界におったものを地上に引き上げて……箱につめて、売って、ワシらの糧にする直前、見えるのが、魚影。生き物がひとかたまりになって、集団で泳いで……いまから思えば、ほら、「集団」のアレじゃ。アレに似てる。ふふ……」
「どうした」
 後悔は泥のように重なって尽きることはない。一方で、こんなにも自由な友人を、ただの自分が多少の関与をしたところで、いったいなんだと言うのだろう? 彼を操縦し得ると考えることが傲慢の種だ。
 庭妻は浦久保優策の人生において脇役だ。子供の頃に読んだ偉人の伝記のように。この危うく美しい一人の男が、人生の陰りに混乱を来す必要のないように。惹かれてやまない明かりが、光源を喪わずに済むように。
「今じゃなんでもかんでも自転車に結びつける。庭妻のせいじゃのぉ」
「ワシのせいかぁ」
「そうじゃ、そうじゃ。そうしてワシは庭妻を一生引きずって生きていくんじゃ」
「大袈裟な」
「父ちゃんのこともそうだけど、ワシ、影響を受けやすいのかもしれんね。おお、怖い怖い……」

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