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ラスト一つだった棚の商品を手に取る。
――棚の向こうに、兄の顔が見えたような気がした。
「悠人? 決まったか?」
「あ……ッス」
慌てて商品を掴んだ手を引っ込める。既に葦木場はレジに並んでいた。後ろを振り向くと、銅橋がカゴに菓子パンを数個放り込んでいる。泉田と黒田は既にすべての買い物を終え、コンビニの外で待っていた。……急がなければ。
振り返ると、兄の顔がまだそこで笑っている。
当然のように、悠人はそれを黙殺した。
「ドッペルゲンガー?」
葦木場が首を傾げる。真波が軽く頷いた。菓子パンの袋を無造作に開け、一口小さく噛り付く。その後ろで、いつものジャージ姿の隼人がうまそうにパワーバーを齧っている。
「そうなんですよ。最近噂になってるみたいでー。自分のドッペルゲンガー見たって人もいますし、こんなところにいるわけない他人のやつ見たってのもありますし。ね、バシくん?」
急に話を振られた銅橋が嫌な顔をする。コンビニの前の机にいつも通り山のような補給食を積み上げながら、彼は「知らねぇよ、んなもん」とぶっきらぼうに吐き捨てた。
「あれ、そう? 最近結構みんな騒いでたのに。オレんとこにも話来たしー」
「……それ、女子の中で噂になってんじゃないスか?」
横から口を挿む。真波は「うん、そうそう。よく分かったねえ」と笑った。
「確かに、ボクも最近そんな話をどこかで聞いた気がするね」
「都市伝説だろ。気にすんな、馬鹿馬鹿しい」
「あはは、そりゃそうだ」
黒田の毒づきに、隼人が軽やかに笑って頷く。「へえ」と真波が頷いた。
「都市伝説なんですねー。……っていうか、ドッペルゲンガーってなんですか?」
「知らねェのかよ!? テメェから振ってきた話だろ!?」
「知りませんよー、そんなの。最近噂になってるから、黒田さんたちならなんか知ってるかなーと思って」
「真波らしいな!」
すっとぼけた話に、隼人は手を打って大笑いした。それをぎろりと視線だけで睨みつけて黙らせると、悠人は小さく嘆息する。
「……あれでしょ。もう一人の自分ってやつッスよ」
「そうだね。正しくは、自分で自分自身の姿を見る幻覚のことかな。有名な都市伝説だから、よく色んな作品の題材にもなっているようだし。周りの人間と会話しないとか、ドアを開けられるとか、色々なパターンがあるみたいだね」
素のパスタとチキンを食べながら、泉田が記憶を探る顔をする。隼人がくつくつと喉を鳴らして笑った。
「お、よく知ってんな、泉田。あとはそうだな、ドッペルゲンガーを見たらその人間の死の前兆だとか、災害の予告だとか言われてるらしいぜ。――自分の姿を外に見るのは『影の病』って呼ばれるんだってさ。不吉の象徴。前に読んだミステリに書いてあったよ」
「……色々便利そうな素材っすね」
顔を顰め、ぽつと呟く。黒田がついと片眉を上げた。
「ん? ……ああ、小説とかか。ま、確かに色々使われてんな」
へえ、と葦木場が分かっているのかいないのか分からない顔で相槌を打った。銅橋が嫌そうに顔を顰める。
「それでェ? それがどうしたんだよ」
「だから、流行ってるからなんか知らないかなーと思っただけだってー。最近本当によく聞くから、他の学年はどうなんだろって。ユートのとこはどう?」
「確かに、たまに聞きますね。でも、よくあることでしょ。古い都市伝説が復活するなんて。明日には口裂け女でも流行ってるかもしんねえし」
嘆息交じりに吐き捨てる。途端、葦木場がびくりと大仰な態度をとった。
「えっ、口裂け女!? なにそれ!?」
「お前知らねえのかよ! あのなあ、」
「――いや、待て、ユキ。そろそろ時間だ、行かなければ」
泉田がふと真顔になった。一斉に時計を見れば、確かにそろそろコンビニを出なければならない時間だ。その声で休息の終了を察したのだろう、それまでの雑談をぴたりと止め、皆が三々五々に腰を上げる。彼らは食べ終わった後の袋をコンビニの横のごみ箱に捨てると、うっすら笑ったままの隼人の横を礼も取らずに通り過ぎていった。
悠人もまた、沈黙する。自分の分のごみをその横に捨てようとして、
「――で、」
隼人が薄ら笑う声が聞こえた。
「これは、おめさんが死ぬ予告なのか? それともオレが死ぬ予兆か?」
「――、」
無表情のまま、黙って数センチ上にある目を睨み返す。チッ、剣呑な舌打ちをその場に落とし、彼はその有り得べからざる幻影を鼻で笑った。数日前から見えるようになった男が纏っているのは、ひどく見慣れた、いつものジャージだ。
胸に『箱根学園』と記された、青と白を基調とするサイクルジャージ。
東京にいるはずの兄が、今、ここで、纏っているわけもない。
「アンタが死ぬ方だろ。ドッペルゲンガー」
「おいおい失礼だな。おめさんが見てるんだから、間違いなくおめさんのドッペルゲンガーだろ」
「はあ? 冗談言うなよ。ドッペルゲンガーはあくまでも自分の幻覚でしょ。オレは兄貴じゃない。だからアンタもオレのドッペルゲンガーじゃない」
「なるほど。ならもう一つ」
『隼人』はにたりと笑った。
「おめさんが、オレの、ドッペルゲンガーってセンがあるだろ?」
囁きは、耳を蝕む毒に似ている。
「そうだろ? 悠人。いっくらクライマーを名乗ったって、みーんなおめさんにオレを投影する。お面で顔隠したって無駄だぜ。どんなに頑張っても、結局おめさんにはオレの名前が付いて回る。あの箱根の直線鬼、天才スプリンター新開隼人の弟ってさ。――それ、おめさんである意味、あるか? オレの代わりだろ?」
悠人はただ、黙って目を細めた。
兄の顔をした幻影は、にたにた薄気味の悪い笑みを浮かべている。
「なあ、悠人」
「呼ぶな。偽物」
「オレの偽物にそんなことを言われても。――期待するのなんてやめればいいのに。葦木場にオレの代わりを期待したって無駄じゃね? あいつは先輩であって、おめさんの兄貴じゃない。……オレを投影したって、意味がない」
「冗談だろ」
悠人はせせら笑った。鏡写しのような笑み。
「葦木場さんにアンタ投影するくらいならそこらのネズミにしたほうがまだいいさ。――イマジナリーフレンド。知ってるだろ? 兄貴。アンタがオレのそれなんて考えるだけでも反吐が出るけど、ドッペルゲンガーよりよっぽどマシ。つまりアンタはなんの予兆でも都市伝説でもない、オレのコンプレックスの塊だ。いつか超える壁の一つ。――失せろ偽物。オレはいつかアンタを超えるけど、それはドッペルゲンガーのアンタでも幻覚のアンタでもない」
吐き捨てる。
「偽物の言葉に傷ついてやるほど、オレは繊細じゃない」
「へえ。そう。――だけど」
唇が何かを言いたげに歪む。
しかし、それを聞く前に、ふと後ろから声がかけられた。
「――おい悠人!何やってんだ、行くっつってんだろォが!」
「サーセン! 今行きます!」
怒鳴り返し、舌を打つ。隼人はもう何も言わなかった。箱学ジャージで腕を組んだまま、ゆるりと唇を吊り上げている。悠人の慌てぶりを楽しむかのように。
これほど本物は底意地が悪くなかろうが。
腹が立つには、変わりない。
「消えろよ」
罵声に、彼は笑って頷いた。いいよ、分厚い唇がそう動き、取り繕った優しい笑みを浮かべる。
「待ってるぜ、悠人。――早く倒しに来いよ。そうしたら、すぐにでも消えてやる」
悠人は皆まで聞かなかった。見届けることもなく踵を返し、愛車の元に走ってゆく。早く走らねえと、口の中だけで嘯く。
山の中までは、その影が追ってこないのを知っていた。
――彼は、とても優秀なスプリンターだったのだ。
