【C05】コロナ

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ふり払ってもふり払っても追いかけてくる何かから逃れるかのように、めいっぱいペダルを回して、ふと足をつく登り坂の途中――。
山が好き、坂が好き、自転車が好き。まだ誰にも触れられていない頂上の景色を最初に見たい。
引きずった自転車を傍らに倒して草はらに寝転ぶと、頭上にはまるであの日と同じような真っ青な空が広がっていた。
 
あの日、インターハイ三日目のゴール後、決定的に変わったものがいくつもある。
山が好き?坂が好き?自転車が好き?そう訊かれれば、今も答える言葉は変わらない。それなのに、一人涙越しの青空を見たあのときからたぶん、同じ言葉の中身が変わってしまった。
 
瞼を下ろした視界が赤い。今頃みんなはミーティングをしてる。箱根学園が王者と呼ばれてきた歴史に終止符を打った張本人のオレが行かなかったから、みんな怒ってるかもしれない。
特にあのとき直接話ができなかった荒北さんと泉田さん――。彼らが仕事をやり遂げて落ちていく様を、オレは目の当たりにしてたのに。
 
限界の、最後の一滴までを争うような最高の勝負がしたかった。そしてそれをすることはできた。坂道くん、山頂へはいつも孤独だと思っていたオレと、キミは一緒に走ってくれたね。あの瞬間、キミと走れてよかったと思った気持ちに嘘はない。でも、あのときオレが落としたものは大きすぎた。最後の一滴まで出しきって、もう何も残ってないと思ってたのに、その後涙はなかなかおさまらなかった。
頂きにいくことと勝負するってことは両立しなかった。まさか頂きにいくことができなくなるなんて。
どうしても、どうしても獲りたかった。獲れるとも思ってた。それ以上に獲りたかった。
彼と闘えば必ず最後まで一緒に走ることになっただろう。だからオレは、彼をよんではいけなかったんだ。
坂道くんから返されたボトルは、受け取ったまま会場に捨てて帰った。一瞬だって長く手にしていることはできなかった。空っぽのはずのそのボトルには、落としたものと対になるものがたくさん詰まっているような気がしたから。
 
草を分けるように、足音と何か軽いものを引く音が近づいてくる。それが誰なのか、瞼を開かなくてもわかる。登りでほとんど音がしなくて、ブレーキの音もほとんどしないくらいの自転車に乗ってる人なんて、一人しかいない。
その人は、たぶん静かに自分の自転車を倒してオレの隣に座って、その後はもういないみたいに静かになった。
オレは瞼を開かなかった。ねてると思ったかもしれないし、ねてないことに気づいたかもしれない。しばらくそのまま時折吹く風の音を聞いていると、「水分補給は忘れるなよ」とだけ呟いて、その人は行ってしまった。やっぱりほとんど音はしなかった。
 
時間が少し経ってから上体を起こすと、あの人のいたはずのところに、まだ封の開いていないペットボトルが置いてあった。
「アクエリだ……」
誰にも、あの人にも言っていない。オレがあの日彼にアクエリを渡したって。彼をインターハイへよんでしまったって。
知るわけないんだ。でも、狙っていたのかどうなのか、あの人はここにいたオレを見つけた。
オレはもう、二度と負けるわけにはいかない――。

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