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回す、回す。とにかく回す。
周りの選手達のスピードは速い。一瞬でも足を緩めると置いていかれそうだ。
今日は初めての自転車レース。橘綾は洋南大学自転車競技部の選手として、出場している。
高3のインハイ直前、肩の故障でテニスを続ける道を絶たれてから、抜け殻のような気持ちで生きてきた。テニスへの未練は一年経った今も、影のように自分に付きまっている。勝てないことも多かったけど、綾はテニスが好きだった。もっと続けていることが出来たらと、思う気持ちもある。
それでも綾は自転車という糧を得て、再び歩き出した。うまく行かない事も多いが、一歩を踏み出すことが出来たと思う。
(もっと動け、私の足!)
踏む、踏む、さらにペダルを踏む。先頭ははるか前。
競技を始めて半年程しかたっていないが、だからといって負けても仕方ないとは思わない。
(少しでも前に出るんだ!)
気の強そうな奴。
それが荒北の橘綾に対する第一印象だった。
今年入ってきた1年生は21人。去年明早を破って念願のインカレ優勝を果たしたからか、入部希望者の数は例年に比べて多い。だが今年はいつもと違っていた。1年の中に2人、女子がいたのである。橘はそのうちの1人で、しかも選手志望だった。洋南大学自転車部は別に男子部ではないが、部創設以来マネージャーを含めて女子は1人もいない。
「1年橘綾です、よろしくお願いします!」
入部初日でかい声で橘は挨拶した。出身は総北高校、金城の後輩で高校ではテニス部に所属していたらしい。気の強そうな鋭い目つきに、男ばかりの空間でも物怖じしない所が印象に残った。
とはいっても女子だ。練習についていけず早々に辞めるのではないかと思っていた。
だが入部から半年たった今も、橘は残っている。
「おはようございます!」
「おはヨ。朝っぱらから声でけーな、おめェら」
練習のない日の朝、自主練をしに来たところ橘が部室で三本ローラーに乗っていた。隣ではメカニックの寒咲幹が、タイマーを片手にタイムを計っている。寒咲はもう1人の女子部員だ。
最初彼女はマネージャー志望だったが、自転車屋の娘である事を知った荒北がバイクの整備をやらせた所、想像以上に上手かった。以来、卒業したメカニックの先輩の後釜に寒咲が座っている。
「幹、後どのくらい回せばいいの?」
「あと1時間よ、綾ちゃん」
「笑いながら言わないでよ。しかも何で楽しそうなの!?」
「もう2時間位いけんじゃねーの、橘」
「ちょ、無理言わないでくださいよ。これでもきついんだから」
文句を言いつつ、橘はペダルを回すのをやめない。
隣の部屋で着替えてから再び部室に入ると、橘はローラーに乗り続けていた。今度は無言だった。一心にペダルを漕ぐその姿が、自転車を始めて間もないころの自分に一瞬重なった。橘がなぜ自転車競技を始めたのかは分からない。荒北自身自分の過去を詮索されるのが好きではないので、他人にも訊かない。ただ、彼女は昔の自分と同じように過去を振り払うように前に進んでいる、と荒北は何となく感じた。
翌日、荒北が部室でビアンキの掃除をしていると、橘が入ってきた。
「一年橘入りまーす。あの荒北さん、真波知りませんか?」
「さっき走りに行った。『今日はいい自転車日和なのでちょっと行ってきまーす』だとヨ」
「ったくアイツ…。今日ノート返してもらう約束なのに」
橘はため息をついてから「真波帰ってくるまで待ってます。ノートないと困るんで」と椅子に座った。橘と真波はたまたまフランス語の授業で一緒になったらしい。授業中寝ていてノートを取れていない真波に、橘は度々ノートを貸しているようだ。
「荒北さん、真波って昔からあんな感じなんですか?」
「まァな」
「大変でしたね」
しばらく二人は無言だった。ビアンキの掃除が終わりかけの頃、橘が口を開いた。
「金城さんから聞いたんですけど、昔野球やってたって本当ですか?」
「チッ、アイツ喋ったのかヨ…中2までな。」
「私テニスやってました」
「知ってる」
「…高3の夏までです。インハイ前に肩壊して辞めました」
何となくそうだとは思っていた。彼女の姿に、昔の自分と似たものを感じていたからだ。
その後、橘はぽつぽつと吐き出すかのように語り始めた。
高2の時インハイの手伝いに行ってから、自転車に興味を持った。高3の夏、初のインハイ出場を諦めざるを得なくなってふさぎ込んでいた時、寒咲からポタリングに誘われロードに乗るようになった。
競技に出たいと思ったのは自分の心の空白を埋めるため、今も影のように付きまとうテニスへの未練を絶ち前に進むため。橘が話したのはそんな内容だった。
「ここに入ろうって思ったのは、合格してから自転車部が強豪だって知ったからです。…行けなかった全国に行くために」
荒北は何も言わずただ彼女の話を聞いていた。
橘が話し終えてから、荒北はこう言った。
「よくありそうな話だなァ。で、おめーはこれからどうすんだ」
「絶対出ます、インカレに」
「ならぐだぐた言わねェでペダル回せ。何があろうと色々いう奴ァいても、目の前だけ見ろ」
「…はい」
「現実はぜってェ覆る」
今大会一番の坂を綾は登っている。
砕けそうな足に活を入れながら、ダンシングを駆使して進む。
息を切らしながら、ペダルを回す。足を止めたい気持ちと闘いながら、強く踏む。
こんな苦しい坂なのに、他の選手は驚くほどスイスイ上っていく。
(化け物なの、あいつら)
身体が重い、思うように進まない。足が辛い。
それでもペダルを踏み続ける限り、遅くても前に進んでいく。
今にも心臓は破れそうだ。だが、足は止めない。
踏む、踏む。苦しくても踏む。少しでも前に行くために。