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枕元に置いたラジオは何処にも繋がらない。ただザラザラと吐き出し続ける音は、本当の波に似ている。いつもならもうとっくに眠いはずなのに、意識はハッキリしていくばかりだ。ちっとも海になんて行けやしない。
冷たいベッドから体を起こす。瞼を開いても大して世界は変わらないまま。ラジオを止めて、それから一度息を吐き出した。あの日から、気づくと呼吸を忘れている。
夏が終わった。それはきっと自分だけの夏ではなかったけれど、あの瞬間だけは。彼が白いラインの向こう側に飛び込むまでは、自分だけの夏だった。自分だけの青空だった。灼けつくアスファルトの熱。溶けそうなほど。消えてしまいそうなほど。
開いた手を閉じる。また開く。閉じる。体は動くのに心はずっと追いつかない。
夜空を切り取った窓から覗くのは丸い満月。伸びてくる光。ベッドの上に造られた影は薄くて、此処じゃ駄目だと外へ出た。
夏が剥がれ落ちた濃紺。そこにぽっかりと空いた穴のように月と、真下に貴方がいた。貴方は長い腕を伸ばして、自分の影をじっと見つめている。
「何してるんですか」
「ええと、釣りだ」
顔を上げた貴方は、ユキちゃんに借りた漫画、とそう言って腕を降ろした。
「真波が釣れた」
何のことかよくわからないけど、夜釣りは上手くいったらしい。本当に釣れるんだな、なんて無邪気に微笑む貴方の頭上には丸い月が浮かぶ。
「寝ないの?」
「…はい」
目を伏せると、足元には青い影。貴方の足元にも。それは歪で、正しく今の俺達の形を映し出している。右手を上げる。影が真似る。ベッドの上では曖昧な輪郭も自然の光の下でやっと息をする。
「満月で出来る影って青いんだ」
知ってたかと静かに微笑む貴方と俺の間に、月明かりが真っ直ぐ落ちてくる。柔らかくて冷たい光。本当だ。
「海の底みたいですね」
体は此処に在って、貴方と話しているのに。心はゆらゆらと波間に揺れて。泡のように消えてしまいそうだ。そうか、此処は海で貴方は釣り人で。俺は魚。
「真波は山の方が好きだろ」
俺と行こうよ、といつの間にか目の前まで近づいた釣り人が言った。貴方の爪先が俺の影を踏んでいるせいで、動くことが出来ない。捕まった魚。夏の空に置いて行かれた魚。好きです。好きだよ。でも俺は魚だから。翼も足も無いから。どんなふうに走っていたろう。どんなふうに息をしていたろうか。あの太陽の下で。
「…まだ無理かもです」
やっとなんとか、それだけ言葉にした。
「じゃあ、先に行ってる」
待ってるよ。
何分後に、何時間後に、追いつけるだろう。この重たい体は、海の上まで泳いでいけるんだろうか。また飛べるんだろうか。走れるのだろうか。
濃い群青の空が明るくなったら、何かが変わりますか。
丸い満月の下。貴方の青い影に包まれて、痛みで泣いてしまうほど陸に焦がれる自分がいた。