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どうしても寝付けない夜というのは、やはり存在してしまうものである。どんなに身体が疲れていてもどんなに脳が睡眠を欲していても、まるで身体ごと眠り方を忘れてしまったかのようにぱっちりと目を開いてしまうのだ。
俺はそういう時、決まって寮をこっそり抜け出して少し離れた場所にある自動販売機まで飲み物を買いに行く。買うものは季節によってまちまちだけれど、今日は心の中でココアを買うと決めて歩き始めた。秋の長雨とはよく言ったもので、ここ数日、梅雨よりも長い雨が箱根では続いていたのだ。そのせいもあってか、気温はまさに底冷え。まだ冬には早いと思っていたのに、通学用にコートを引っ張り出す始末である。出来るならばマフラーだって巻いてしまいたい程だけれど、コートに顔を埋める俺を見て靖友が顔を歪めていたのでさすがに自重した。靖友は寒さに強いから羨ましい。寒さは俺の敵である。
ぶぅん、と電灯が小さな音をたてながら暗闇に覆われた道路を静かに青く照らしている。同じ色をした、二つ目の電灯の下に自動販売機はあるのだけれど、今日はそこに先客がいるようだ。
時刻は0時を少し過ぎた時間。人通りは決して多くない道、先客がいるのは初めてだった。お巡りさんじゃなければいいけど、と思いつつなんとなく足音を気持ち忍ばせ近づいて行く。その先客が自動販売機の前からいなくなることを期待していたのだけれど、そう上手くもいかないようで、青い光の中にぼんやりと影は浮かんだままだった。
「あ、新開さんだ~!こんばんは!」
気を張っていた自分が馬鹿らしくなるほどのその呑気な声は、その影から聞こえてきたようだった。ぴょこんと揺れる青い髪が見えるほど近くに来た時、やっとそれが後輩である真波だと認めることが出来た。
新開さん、こんな時間にどうしたんですか?そうにこにこ笑いながら言う真波に、おめさんこそこんな時間にどうしたんだ?と聞き返せば、家の鍵を忘れちゃったので、両親が帰ってくるまで登ってました!とこれまた呑気に返される。これがきっと尽八や靖友ならまるで母親のように叱り飛ばすのだろうけど、俺も存外呑気な性格をしているので、こんな遅くまですごいな、と単純に納得した。けれど暗がりの山道が危ないことも事実だ。そこをやんわり注意しておくことは忘れない。
「登るのはいいけど、危ないのは事実だからな。お前が怪我をするとみんな心配するし、真波も怪我をして登れなくなるのは嫌だろ?」
「あー、それは嫌かもしれませんね」
「だろ?だから、なるべく夜は控えような」
その言葉と一緒に、がしゃんと音を立てて落ちてきたココアを渡してやる。新開さんありがとう!と少しだけしゅんとした顔を一気に笑顔に変え、それにつられて俺も自分が笑顔になったのを自覚した。
「今度、鍵につけるキーホルダーでも一緒に買いに行こうか」
「キーホルダー?」
「そう、それを鞄か何かに付けてたらもう忘れないだろ?」
「わ!それいいですね!じゃあそれ買いに行く時は、一緒にロードで行ってくださいね。約束です」
「わかった。じゃあ山ばっかりじゃない道をちゃんと探しとくからな」
「ええ~~山ばっかりがいいです」
「俺死んじゃうからな」
「それも嫌です」
最近降り続いた雨もさすがに休暇を与えられたのだろうか。空には久しく見ていなかった星空が広がっていた。乾いた空気が遠くの星の瞬きまで綺麗にこちらへ届けてくれる。はあ、と吐く息は白いし、さっき買ったばかりのココアもさっそく冷えてきたけれど、隣でにこにこと笑う後輩を見るとたまには寒さも悪くないな、と思ってしまうので不思議だ。
「じゃあ俺は、新開さんにお守り選びますね」
「お守り?」
「受験が成功するお守りです!」
「ヒュウ、楽しみにしてるぜ。ありがとな」
この後輩とこの箱根学園にいられるのもあと数ヶ月だ。まだその実感は何故か薄くて、ぼんやりとただ毎日受験に備える日々が続いていたのだけれど。こうして夜中、こっそり話すのもきっともう多くは出来ないだろうと思えばやはりじんわりと胸に寂しさが滲んだのに気が付いた。
「真波」
「はい?」
「また、山登ろうな。今度は明るい時に」
「! はい!」
なら、あとすこし。出来るだけ、一緒に走ろう。3年の自分と、2年、1年の後輩達でいられるのは今しかないのだ。だから、後悔しないように。後悔させることがないように。一桁ゼッケンを残してやることが出来なかった先輩だけれど、それでもいいなら出来ることをしよう。もちろん、2年と同級生にならない程度に。
自分はまだ、出来ることがある。しなければならないことがある。それに気付いた時、思い出したように唐突に睡魔が瞼を襲ってきた。新開さん、眠そうですね。すみません遅くまで。そう言って少しだけ申し訳なさそうにアホ毛と表情をしゅんとさせる真波の頭を、なんとなくくしゃくしゃと撫でた。よく寝て、また明日。そう言えばやっぱりその後輩は眩しいほどの笑顔ではい!と頷いてくれた。
新開さん、おやすみなさい。そう言って、ぼんやりとした月光を照らす朧月を背に後輩は帰路についた。俺は一つ伸びをして、同じように帰路へとつく。空になったココアの缶は冷たくて、けれどなんだか身体はぽかぽかとあたたかい。真波にはなんのキーホルダーが似合うだろうか?そんなことを考えながら、来た時とはまるで違う気持ちで道を辿る。相変わらず息は白いし、肌を刺すような風が吹いている。電灯はぶぅん、と静かだし、人は人っ子一人いないけれど、やっぱりどこか違って見えた。
これはなんでもない、けれど確かにあった、秋と冬の間の日。朧月夜の時の話だ。