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「……ありがとうございます、先生」
「あら、いいのよ。終わったら声かけて頂戴ね」
――おや、と思ったのは、一年の春。
ちょうど昼休みに音楽室の前を通りがかった時だ。
音楽室へと繋がる廊下の角に葦木場がいる。その目の前にいるのは音楽担当の教諭だろう。
彼がその長身を腰から折ると、彼女はさっさと音楽準備室の中へ消えていった。それを待ってから音楽室に入ろうとした葦木場が、ふとこちらを見てきょとんと眼を瞬く。
「あれ、バッシー?」
「……ウス」
覚えられていたのか、と心中驚きながら銅橋は頭を下げた。天然な上級生はのほほんと笑うと、「バッシーも音楽室に用事あったんだねえ」と言ってもいないことを結論付けた。
「いや、別に、オレは……」
「違うの? じゃあ忘れ物?」
「……そんなもんっす」
それは結局同じことじゃないだろうか。訂正を諦めて頷くと「じゃあおいでよ」と手招きされた。どうやら、葦木場の方こそ音楽室に用事があるらしい。
「葦木場さんは、忘れもんスか」
「ううん。ピアノ借りるんだ」
「ピアノ?」
勝手知ったる顔で鍵を開け、中に入る。昼下がりの音楽室はやけに静かで、乾いた空気が身じろぎもせずに二人を出迎えた。整然と並んだ机の中を突っ切って、長身の上級生が前方に据えられたグランドピアノに歩み寄る。蓋を開けると、掛かっていた布をそっと外し、鍵盤を一つ指先で押し込んだ。ポーン、と高い音が一つ響く。
「弾けるんスか?」
「うん。オレ得意なんだ、ピアノ」
あっさりと肯定すると、葦木場はおもむろに椅子に腰かけた。調子を試すように軽く鍵盤に指を走らせる。低音から高音へ。そして高音から低音へ。よくもまあ、こんなにもくるくると指が回るものだ、と銅橋は感心した。どんくさそうな先輩だと思っていたが、案外器用な面もあるらしい。人は見かけによらないものだ。
「昔っからやってるんだ、オレ。中学で純ちゃんって子がいてね、歌まねがうまくて」
「はあ……」
「純ちゃんに自転車教わったんだよ。オレたちで天下取ろうって約束したんだ。オレが引っ越しちゃったからできなかったけど」
指慣らしのように走らせていた音は、いつの間にかなにかの曲に変わっていたらしい。
おおよそクラシックだろうとあたりをつけるが、そういった素養がまるでない銅橋にはなにがなんだか分からない。白鍵と黒鍵の上を指が軽やかに跳ねまわる。乱れや間違いがないのだろうということと、おそらく上手いのだろうということだけは分かった。それ以上は聞いても分からないだろう。
「うめぇっすね」
「ありがとう」
葦木場の目は鍵盤から動かない。楽譜がないことに、銅橋は今更気が付いた。先ほどの女性教諭も毎回楽譜を見ながら弾いているはずだが。
「覚えてるんすか」
「うん、暗譜してる。第一楽章だけだけど」
アンプ、と言われて咄嗟にスピーカーを思い浮かべる。だが、頭の中ですぐに暗譜、と変換し直されて納得した。迂闊なことを言わなくてよかった。話がこんがらがる予感しかしない。
「ベートーベンの『英雄』のピアノ変奏曲なんだ。ナポレオンに作ってあげたのに、ナポレオンが皇帝になったから怒って破り捨てたって有名な曲。それでも、ベートーベンの中では傑作だったんだって。『運命』よりも」
「はあ」
「いい曲だよね。オレ、好きなんだ」
銅橋の生返事も気にせず、葦木場はつらつらと言葉を並べ立てる。曲調は特に緩やかに、時に勇壮に、場を飾り立てた。もっとクラシックに堪能な人間がいたらまた話は違ったのかもしれないが、銅橋の感想は一貫して「上手ェ気がする」の一つである。勿体ない。なんで葦木場も、こんな自分にわざわざ聞かせているのか。いや、そもそもなんで自分はこうも大人しく昼休みにクラシックなんぞ聞いているのか。
「一番好きなんすか」
「ううん? 一番は第九だよ、年末に歌う奴」
じゃあなんで今これ弾いてんだよ。堪え性のない銅橋がそれを喉奥に押し留められたのは、偏に突っ込み疲れている黒田の姿が脳裏に過ぎったからだ。ああはなりたくない、とは銅橋の切実な感情だった。同学年の真波の制御を軽く黒田に投げているから、特に。
――ただ、思うところは、ある。
これほどピアノに堪能ならば、なぜ自転車競技部なぞに入っているのだろう。あそこは入部して数か月も経っていない銅橋でも窒息しそうになる部活だ。自転車を辞めたくない、あんな上級生どもに馬鹿にされたまま終わってたまるか。その一心で何度退部させられても入部しなおしているが、葦木場はそんなタイプではないはずだ。
理不尽ではないが、かといって実力があるようにも見えない上級生。
ポジションの違いもあって実際の走りは見たことがないが、少なくとも彼がレースに出たという話は聞いたことがない。三年や二年のレギュラーたちの戦歴は尋ねなくとも勝手に耳に入ってくる。その中で自分の成績も誇らず、他人から話も聞かないということは、やはり大したことはないのだろうか。理不尽な命令を下級生に押し付けないだけマシではあるが。
白と黒の長方形の上で、長い指が勇壮な曲調を盛り立てていく。
「……音楽部はいりゃいいのに」
失礼だと分かっていて、曲に紛れるように小さく呟く。人間誰しも取り柄があるのだ、というなら、葦木場にとってそれはピアノなのではないだろうか。少なくとも、一番が自転車であるようには見えない。
だが。
「自転車が好きなんだ」
しっかりとそれを聞きとったらしい葦木場は、さらりと言った。
口を噤む。聞かれたことの気まずさを嗅ぎ取ったのかどうか、葦木場は鍵盤から目を上げぬままに小さく呟いた。
「バッシーもそうだろ。得意だからやってるわけじゃないでしょ」
「……」
何と答えればいいか分からず、銅橋は沈黙を保った。葦木場の目が初めてこちらを向く。
不思議な色の目をしていた。
「失望させたまんまって辛いし、苦しいけど。それでもオレ、速くなりたいんだ。先輩がかけてくれた言葉、無駄にしたくない。『英雄』みたいに、失望されても、残しておいてもらえるものに、なりたい」
「……」
「――最強の洗濯係じゃ、誇ってもらえない」
その時。
曲の中に、初めて汚い音が混ざった。
音が途絶える。白と黒の鍵盤に目を落とすと、葦木場はなんでもないように「あっ、間違えた」と呟いた。指が離れる。絶え間なく歌っていた曲はあっけなく終わりを迎える。
拍子抜けする銅橋の前で、葦木場は元通りに鍵盤に布をかけた。蓋を戻し、あっさりと立ち上がる。呆気に取られている銅橋をまじまじと見ると、うーん、と何やら思案するように首を傾げた。
「バッシー、ご飯食べた?」
「……いや、まだっすけど」
「あっ、じゃあオレ奢ってあげるね!」
何を思ったか、ぱっと葦木場の顔が明るくなる。ごそごそと自分のポケットをひっくり返し、やがて肩をがっくり落とした。
「財布忘れてきちゃった……えーとバッシー、ごめんね! これでいい?」
はいともいいえとも言う前に、ころんと一枚、薄い黄金に輝く小銭が掌に落とされる。500円玉だ。どうも、一枚だけはポケットの中に落ちていたらしい。
「え……いや、んな悪いっすよ」
「だいじょーぶ大丈夫! オレ先輩だから! それじゃ、放課後ね!」
ちゃんと食べないと強くなれないもんね、なんて銅橋に言うとも思えない台詞を最後に吐き、葦木場は音楽室から消えていった。何とも言えぬ感情を抱えたまま、掌のコインに目を落とす。……食堂通いの高校生にとってみれば、これだけでも相当食事が潤うが、さて。
「クライマーは意味わかんねぇな」
主に青いアホ毛を頭にくっつけた同級生を思い浮かべながら、銅橋はしみじみと呟く。
葦木場の起こした事件をまだ知らぬ、若葉の日の頃であった。