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春先には相応しくない、冷たい視線に射すくめられて身じろぎをした。目の前には男が二人、両方ともオールラウンダーだ。いつも風除けとして助けられている大きくて逞しい体躯は、いざ目の前にしてみると迫力があった。こうやって腕を組んで見下ろされてみればなおさらだ。対するこちらは、百七十センチになろうとしている身体は決して小柄というわけではないが、こちらは一人だし、ましてや中学生なのだからどうしても見劣りしてしまう。それでも怯むことなく、もう一度、鏑木は主張する。本当のことなのだから。
チームSSの練習はその日の内容によって多少場所が変わる。なので、毎回、練習場所近辺の公共施設を借りてその日の拠点としている。部屋の鍵の管理はローテーションで行う決まりになっていて、今日の鍵当番は鏑木だった。恒例の入れ替えレースが終わって鍵を開けたところまではなにも問題なかったのに、メンバーの着替えが終わり、最後に施設の管理人に鍵を返そうとしたところで、リュックの内ポケットに確かにしまっていたはずのそれがなくなっていることに気が付いたのだ。
「ちゃんと自分のリュックの、ここのポケットに入れました。ここのポケット、二重になってて、ファスナーも閉めてました」
「でも、今はないんだろ?」
「絶対カン違いだって。どこかに持ち出したんじゃない?」
「カン違いじゃ、」
ないです、という言葉は唇と一緒に噛み殺した。何回も繰り返し口にしているのに、その内の一回すら信じてもらえていないのだから、意味がない。本当なのに。その証拠に、部屋にいたチームメイトと部屋を総当たりで探してもそれは出てこなかった。けれどそれは証拠になるどころか、別のところに落としてきたんじゃないか?という新たな疑惑に塗り替えられた。
なんで信じてくれないんだ、という苛立ちがつのる。それなのにこの状況は分が悪くて、心の声を口にすることができない。
(誰か、盗んだんじゃないっすか)
ここまで探して見つからないなら、そうとしか考えられない。帰り支度をするどさくさに紛れて、チームの誰かが盗んだとしか。でも、証拠もないのにそんなことを言えば立場が悪くなることは、中学生の鏑木にもさすがに想像がついた。誰かもわからないし、そもそも動機の説明もできない。頼りにしている相棒も今は見当たらなかった。
「とにかく、もう一度探そう。部屋も、あと、トイレとか、ありえそうなところも」
サブリーダーが、無理に明るい声でそう皆に告げた。自分のせいではないのに、不思議と申し訳ない気持ちはになる。肺のあたりが押し潰されたように苦しかった。
そんな時なのに、いや、そんな時だからだったからなのだろうか。遠くにいた誰のものかも分からない小さな呟きが、どうしてかはっきりと鏑木の耳に届いてしまった。
「……めんどくせ」
ぷちん、と、糸が切れた。
俺じゃないのに。
誰かが盗んだんじゃないんですか。
そう怒鳴ろうとしたときだった。
「鍵ならある」
扉の方から声がする。出かかった言葉を飲み込んでそちらに顔を向けると、チームリーダーが怒りを露わにして立っていた。その右手にはさっきまで探していたはずの鍵があり、左後ろには段竹がいた。
「お前のロードの傍に置いてあった荷物から出てきた。どういうことか説明してもらえるか?」
確かな怒りを持った視線の矛先はただひとりに向けられ、その人物の顔から赤みがサッと引く。全てを物語る反応に、鏑木は目を見開いた。
だって、その人は。
その人は、いつもにこやかで、よくお菓子を分け与えてくれた人で、何かにつけて気にかけてくれる人でもあって、そして。
先程執り行われたばかりの入れ替えレースの敗者、だった。
* * *
『お前らは、なんでそんなに残酷なんだ』
鏑木と段竹の目には温厚に映っていたはずのその男は、今までに見たことのない形相で唾をまき散らし、今度のレースには妻と子供が観に来るはずだったのに、とか、そんなことをわめいた。リーダーに頬を叩かれた後、残酷、という言葉を残して男は立ち去った。鏑木と段竹を一瞥したまなざしは氷のようだったけれど、瞳の奥は震えていた。
謝られなどしなかった。でも、それでいいと思った。どうせ許すことなどできないだろうから、それでいい。
半ば押し流されるように解散になったが、さすがにまっすぐ帰る気にはなれなかった。どこかに寄りたい、と鏑木に声をかけると、オレも、といつもより覇気のない声が返る。自分も疲れたけれど、一番疲れているのは隣の当事者だろう。
自販機とベンチのある公園に到着するまでの間に、レース終わりのあの男の様子にどこか落ち着きがなかったこと、鏑木がトイレに行っているときにあの男が鏑木の荷物の近くにいたこと、騒ぎが大きくなる前にリーダーに話して証拠を見つけたこと、などを話した。相槌を打ちながらも鏑木はどこか上の空で、話が終わると「つーか、バレるのに、なんであんなことしたんだ?意味わかんねえ」と顔を歪めた。
その通りだと思った。同級生のいじめと同じようなことをなぜ大人がするのか、と考えるだけで体が重くなった。その重みに任せるように、公園のベンチに腰を下ろす。
「……チームってなんなんだろうな、一差」
「オレも今、同じこと考えてたけど、んー……勝ち続けなきゃチームじゃねえんだな、って思った」
それは違う、一差。咄嗟にそう言いかけて、やめる。再び沈黙が訪れたが、今の段竹には鏑木の言葉を否定することができなかった。勝ち続けなきゃチームじゃない。それは紛れもない真実だ。
自転車を使ったかけっこをロードレースと呼ぶ、と曖昧な理解をしたのは小学生の頃で、当時はロードレースの「つよい」が何かなんて考えもしなかった。考えなくとも、小学生にも一目瞭然だった。一番速い者が一番強い。そして、それをきれいに体現しているチームこそ、このスピードショットだった。
速い者が強い。強い者が集い、勝者でつくられるチーム。勝ったとき以外笑うな。自分たちが今いるのはそういうチームだ。分かっていて、むしろ望むところだと足を踏み入れたはずだったけれど、一度立ち止まって考えてみると、確かに残酷なのかもしれなかった。
でも、と段竹は思う。でも、チームって、もっと何かあるんじゃないか。今は大人たちに囲まれて、俺たち二人で身を寄せ合ってここにしがみついているけれど、速くて強いだけじゃない何かが。
まとまらない言葉が頭の中に散らばる。いつかこの言葉たちを上手く掬って言える日が来るだろうか、と考えたところで、隣の友人はすぅ、と息を吸った。
「オレが信じられるのは段竹、お前だけだ!だから、これからも一緒に走ってくれよな!」
ぱん、と腿を叩き、勢いをつけて立ち上がった鏑木を見やる。迷いのない横顔は、すっかり辺りを支配している夕闇にも溶けそうにない。悩んでも、答えが出なくても、それでも前を向けるこの友は強い。残酷と言われようとなんだろうと、それだけは事実だ。
「……じゃあ、そろそろ決めないとだな。高校」
「ゲッ!進路!考えたくねえー!でも、行くなら自転車部が強いとこだな!しかも、スゲー人がいるとこ!で、そのスゲー人を倒して、オレ様と段竹で一番になるんだ!そしたら、それって最強のチームだろ?」
びっくりするほど生意気な演説をぶちかましながら、その瞳はこうこうと輝いていた。鏑木の笑顔には迷いがない。たとえ答えが出なくても、何かを突破できるような力強さがある。時に強引なその笑顔は、段竹にはとても頼もしく映るのだ。
だから、共に歩もうと言ってくれる相棒を信じて速くなろう、と誓った。胸の中でモヤついているものの答えはまだ分からないけれど、少なくとも、今は、二人で。
どちらからともなく帰路を辿り始めた二つの影を、欠けた月がやさしく照らしていた。
鏑木が、富士の五合目へ続く急勾配を登りながら笑うクライマーを目にするまで、あと四ヶ月と三日。
二人が本当の『チーム』に触れる、一年前の話である。