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ピアノの鍵盤は、白と黒、合わせて八十八。だから八月八日は鍵盤の日。
「登れる上にトークも切れる、更にこの美形。天は俺に三物を与えた!箱根の山神東堂尽八とは俺のことだ!ちなみに誕生日は八月八日。全てにおいて末広がりで縁起がいい!この俺に相応し……いってぇ!?」
「おいデコ。一人で勝手にべらべら喋ってんじゃねェよ。後ろつまってんだろォが」
「なんだと荒北貴様千歩譲って注意は受けるが叩く必要がどこにあった」
「おめーがうるせェからだバァカ」
「だから!叩く必要はないだろう新入生の前だぞ悪影響があったらどうしてくれる!?」
「ッゼ」
「うざくはないな!」
入部して最初の日。どうせ覚えきれないからって名前と脚質だけ告げられた自己紹介の中で、突然響いた大きな声。怖そうな先輩との口喧嘩はすぐに別の先輩に止められていたけど、周りの一年生はその人の事だけは一発で覚えてた。俺は正直名前よりも誕生日の方を先に覚えた。
八月八日、鍵盤の日。俺の大好きなピアノに関係のある日。
きっと俺以外誰もその日が”そう”だなんて知らないけれど、俺はその人―――東堂さんを知れば知るほどぴったりだなって思うようになった。
東堂さんはオーケストラみたいにたくさんいる部員の中で、いつだってはっきりとその存在を主張していた。でも、だからといって全体のバランスを崩すことなく、時には他の音に埋没してサポートに徹する、そんな風に見えた。すごい人だなって思った。
東堂さんはすごい人だけど、一つだけ、俺にはどうしても不思議な事があった。
皆、東堂さんは普段すごくうるさいって言う。でも、登っている時だけは静かで音がしないって。俺は逆だと思った。
東堂さんは普段は本当に静かだ。たとえどんなに大きな声で話していても、東堂さん自身から聞こえる音にそれほど大きな変化はない。だけど、登っている時だけは違う。誰よりも大きな音で、周囲の音を蹴散らしながら、ぐんぐんと険しい山道を登っていく。なんの曲かは分からなかった。俺は落ちこぼれで、いつも置いてかれてばかりだったから。
そうして梅雨が過ぎた頃。
自主練で、一人で山を登っていた時だった。気の早い蝉が大きな声で鳴いていて、湿気で重みを増した空気が全身にまとわりつく。暑くて苦しくて、何度も足を止めながら。それでももうすぐ山頂に辿りつく、ってところで、後ろからものすごい大音量が聞こえてきて、危うく落車するところだった。
びりびりと空気を震わせて伝わってくるのは、ベートーヴェン交響曲第9番第4楽章・歓びの歌。
―――東堂さんだ。
ちゃんと曲になっているのを聞いたのは初めてだけど、間違えようがなかった。魂を揺さぶられるほど強く、気高く、激しい音色。山を駆けあがることの歓びを、世界中に高らかに宣言している。息が止まりそうなほどの迫力。圧倒的な自信と迸る情熱が押し寄せてきて、目眩がする。
すごい。
それしか言葉が浮かばなかった。同時に襲い来る、胸の奥を握り潰されるような感覚。それでも惹き寄せられて、耳を澄ませずにはいられなかった。そして。
「葦木場…?っておい、どうした?メカトラか、それとも具合でも悪いのか?」
「………あ」
気づいたらすぐ目の前に東堂さんがいた。いつの間にか俺の足は止まっていて、東堂さんはわざわざ自転車を降りて俺の傍まで来てくれたらしい。何故か心配そうに声をかけられて、訳が分からず首を傾げる。東堂さんは一瞬眉間にしわを寄せてから、小さくため息をついて、言った。
「泣いているだろう」
「……え?」
ほっぺたに触ると、指先が濡れた。慌てて拭っても、次から次に涙が溢れて止まらない。軽くパニックになりかけたところで、東堂さんの落ち着いた声が響く。
「道の真ん中で立ち止まって泣いているから、メカトラか具合でも悪いのかと聞いた。だが、様子を見る限り違うようだな。どうした。ゆっくりでいいから話してみろ」
普段の明るくて騒がしい声とはまるで違う柔らかいそれに、すぅっと動揺が引けていったのが分かる。ぐすりと鼻を鳴らしながら、俺は自分がどうして泣いているのか考えた。
一番は、東堂さんの音に心が震えたから。そう言い切ってしまえれば、俺はきっととても可愛い後輩になれただろう。だけど、それだけじゃなかった。それだけじゃ、なかったんだ。
「くるし、くて」
小さく小さく絞り出した声は、重なる蝉の声にかき消された。
「お、れは、ちゃんと、できなくて。自転車に、のりたいっ、のに、速くなりたいのに、うまく、いかなくっ……て、東堂さん、みたいに、上手にっ…できなくて、それで、くやしくてっ…」
嗚咽混じりのそれは、情けなくて生意気で、どうしようもない嫉妬だった。落ちこぼれの俺が東堂さんみたいになんて出来るわけないのに。ボロボロと地面に落ちていく涙を見つめながら、なんて酷い後輩だろうって思った。せっかく心配してくれたのに、恩を仇で返すような真似をして、怒鳴られたって仕方無い。そう思って、小さく身を縮こまらせた時だった。
「そうか。ならばそれは、お前がまだ競技者であるという証だな」
「へ?」
思いもよらない言葉にびっくりして顔を上げると、東堂さんはすでに自転車に跨っていた。
「諦めた者に苦しみはない。それと引き換えに競技者としての己を失う。ここでは珍しくもないことだ。だが、お前は違うな。この俺に面と向かって”くやしい”と言える度胸は悪くない。だから一つだけ助言をやろう」
がちり、とクリートをはめ込む音がする。すぐにも出発できる体勢で、顔だけをこちらに向けて、真っ直ぐに俺のための言葉を投げる。
「その苦しみを手放すな」
頭の中で、ピアノの音が鳴り響く。
「たとえどんなに重くても、辛くて投げ出したくなったとしても。それを握りしめている限り、お前は箱学の選手でいられる。誰がなんと言おうとだ」
それだけ言って、東堂さんは行ってしまった。俺は少しの間動けなかった。体の奥底から音楽が聞こえてくる。大事な俺の音。東堂さんのおかげで思い出した。
その後。俺はやっぱり全然速くならなくて、洗濯係なんて呼ばれた。すごく辛かった。福富さんと新開さんが助けてくれて、それなのにレースで逆走して無期限の謹慎になって、目の前が真っ暗になった。
だけど俺は、苦しくなる度に東堂さんの言葉を胸の中で繰り返した。これがある内は、俺はまだ選手なんだって安心できたから。
そうして俺は三年になって、インハイに出た。辛かった事も苦しかった事も全部力にして、それを絞り尽くして、激闘の三日間を走りきった。
今日は、八月八日。
最高に熱かったインターハイが終わって、俺達三年は少しだけ練習に余裕ができた。だから、ほんのちょっとだけ抜け出して音楽室に向かう。ユキちゃんに怒られるかなぁなんて思いながら、独特の静けさに満ちた室内で、ひと際存在感を放つ楽器に触れた。蓋を開けて赤い布を取り払うと、白と黒の見慣れた鍵盤。一つ二つ叩いて音を確かめてから、ゆっくりと指を置く。
曲目は、ベートーヴェン交響曲第9番第4楽章・歓びの歌。お決まりの誕生日ソングよりも、こっちの方が東堂さんっぽいから。
そんな風に勝手に決めて一人でこっそりお祝いするつもりだったのに、曲が終わる頃になってユキちゃんに校内放送で呼び出された。東堂さんが来てくれてるから、さっさと来い!だって。
思わず笑って、最後の一音を叩き終わってから、俺は急いで部室に走った。絶対に怒られるけど、そしたら塔ちゃんに庇ってもらおう。なんといっても、今日はお祝いの日なのだから!
八月八日は東堂さんの誕生日。俺達の大事な先輩が生まれた日。