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これは完全なる「詰み」と言うヤツか。人生最大のピンチだ。
「マジでどうしよ…」
冷たいタイルの壁と床。所々欠けていて、綺麗に清掃されているが控えめに言っても清潔とは言えない場所だ。
時刻はもうすぐ午後9時を回る頃だろう。
総北高校三年自転車競技部部長、手嶋純太。彼が現在居る場所は、普段ほとんど人が立ち寄らない、特別教室棟の一階トイレの個室、だった。
時刻は午後8時まで遡る。
部活が終わり、皆が帰った後1人残り部室に残り部誌を描くのが手嶋の日課だ。
「…やべ、トイレ行きたい…」
30分ほどかけて書き終え、カバンを背にロードに跨り帰宅…しようとした矢先に尿意を催してしまった。
ロードとカバンを置いてすぐそばの校舎へと小走りに向かい……そして現在。
手嶋はトイレの一番手前、個室の中に居た。
「どうしてこうなった…」
もう約30分頭を抱えて地面にうずくまり、途方に暮れている。
「なんでよりによって…鍵がぶっ壊れてんだよ…」
何度回しても扉がピクリとも動かないのだ。
慌てて入ったときに、鍵がかかりにくいなとは思った。でも無理やり閉めた。いくら誰も居ないとは言え、開けっ放しで下半身を晒すバカはいないだろ?
それに、なぜ個室に入ったのかと聞かれたら、このトイレには小便用の便器が存在しないからだと声高々に訴えたい。
個室の扉にも壁も、隙間がない。頑丈すぎる扉に何度タックルをかましてもびくともしない。
「俺はどうしてカバンまで置いてきた…」
スマホは汚れたタオルやジャージの詰まったカバンの中だ。誰かに連絡しようとも手段がなかった。
「完全にピンチじゃん…」
しかも今日は金曜日。土日に部活はあっても授業がないので、この特別教室棟に立ち寄る者は居ないだろう。もしかしたら2日以上、このままかもしれない。
「恥ずかしい…恥ずかしすぎる…手嶋純太、一生の不覚…」
事を知った友人や仲間たちの笑い転げる姿が目に浮かぶ。
「ちくしょ~!早く帰って飯食って、明日の練習プラン練りてぇ~」
こんな馬鹿みたいな理由で大切な時間を奪われてしまったショックもあるけれど、今はとりあえず、とてつもなく恥ずかしい。穴があったら入りたい。便器の小さな穴じゃなくて、ブラジルまで逃亡できるくらいの。綺麗か汚いかは、この際どうでもいいから。
それからまた30分くらい経過しただろうか。
「……うおっ!?」
地面が寒すぎて、便器の上に乗り上げ体育座りをしていた手嶋に再び不幸が訪れる。
突然電気が消えて、真っ暗になってしまった。
おそらく消灯時間なのだろう。
「トイレで現れるのって花子さんだっけ…?でもここ男子便所だし…太郎さんか?……もうなんでもいいからここから出してくれー!!」
バンバンと壁や天井を叩き、羞恥心のせいでできなかった大声で助けを呼ぶ行為を繰り返してみるが反応はない。
うなだれて、便器の上に座り込む。
「これからどう……ん…?」
大きなため息を吐いた手嶋の耳に、今まで聞こえていなかった音が入り込んできた。
誰かの足音が遠くから聞こえる気がする。ゆっくりその音はこちらに近付いているようだ。
「おーい!ここに人がいまーす!」
もうなりふり構っていられない。手嶋は大声でその足音の主を呼んだ。
足音が近づいて、廊下のトイレの前で止まる。
「ここ、ここでーす!」
足音が止まったのを知って再び声をかけると、トイレの中に誰かが入る気配がして数秒後。コンコン、と二回ノックされ、それから聞き覚えのある、しかしなかなか聞けないよく知った声がした。
「純太か…?」
「もしかして青八木…!?」
思いもよらない人物の登場に、手嶋は目を輝かせ万歳して立ち上がる。
「とにかく、すまん。どうにかして出してくれ…鍵が壊れてて」
「…?開かないのか…?」
少し怪訝そうな青八木の声。
まさかこんなところで嘘吐くはずないだろうと手嶋が言うと、少しの間の後小さく口を開く。
「警備員さん連れてくる」
青八木はそう告げると再び足音を鳴らして、今度は小走りで去って行った。
「よ、よかった…」
この悪夢からようやく抜け出せることにほっとした手嶋は、大きく背伸びをして相棒の帰りを待ったのだった。
「ありがとな、青八木~!助かったよ、マジで!」
あの後、警備員さんが工具を手に駆けつけてくれて事なきを得た。2人でロードを押しながら歩いて帰路に着いたのは深夜23時を過ぎた頃だった。
「でも、なんで俺がいるって分かったんだ?」
明日も部活で朝は早いが、とにかく今はとても晴々とした気分で、青八木に満面の笑みを向けて何気なく聞いた。
「忘れ物して部室に行った」
いつも通り、短い文章が返ってきた。続きを促すように「それで?」と相槌をいれる。
「帰りに自転車見つけて、校舎の中で純太が、手振ってた…」
「………はい?」
待て待て、待ってくれ。
「…誰が誰に、どこで、なにをしてたって…?」
一言一句、聞き逃したら駄目な気がする。
「…純太が俺に向かって」
「俺が青八木に向かって…?」
ゴクリと息を呑み、冷や汗が流れてきた。
「手、振ってた…笑って」
「……おいおい…待てって、なんでトイレに閉じ込められてた俺がそんなことできるんだよ…しかも、笑ってたとか必要ねーからぁ~!!」
終わったはずのホラー展開が更なる進化を遂げたので、手嶋純太は夜空に吠えた。
よりによって、今日自宅には誰もいない。このままではトイレに閉じ込められた以上に恥ずかしい、1人じゃ寝られないなんて事態になってしまう。
「とにかく、この話は終わり!」
妙なテンションで空笑いを浮かべて話をぶった切った。ちょうど別れ道だったので「じゃあな青八木!」と有無を言わさずさよならしてやる。せっかく救出してくれた彼には悪いが、これ以上話を聞いても嫌な予感しかしない。
「…あれ?純太、髪…短くなった?」
そんなびびっている背中に青八木が少し不思議そうに声をかけてくる。ピタ、と手嶋の動きが停止する。恐る恐る振り返った。
「窓の向こうで、俺に手…降ってた時はくくってなくて…もっと髪、長かった、ような…」
あまり長文を話すのが得意でないせいで、途切れ途切れに話すものだから、余計に恐怖度が上がる。
おまけに、これくらいと肩よりはるか下に手を当てるものだから、手嶋はそりゃあもうパニックだ。
青八木の元まで戻り、顔を覗き混んで睨みつけるが、震えているせいで全く迫力はない。
「髪くくってたしそんな長くないし手なんて降ってないし笑ってない!はじめ~!」
ガクガクと青八木の両肩を掴んで揺らす。
自分でそう言いつつも、じゃあ青八木が見た人は誰だったのかと問われるのが怖くて、それ以上は深くつっこめなかった。…それなのに。
「…よく考えたら…あれ、純太だったかどうか…服装も違ったような…なんで思い出せないんだろう…」
「やーめーてーはじめく~ん!!」
ああ~聞きたくない!と手嶋は耳を抑えて身悶える。
「…あれはそもそも…人間、なのか…?」
「なに!?やけに今日喋るじゃん!?」
もうやめて!手嶋純太のライフは0よ!心の中で自分ではない誰がが訴えてくれるが、青八木には届かない。
その上、ハッとした顔で手嶋の顔を真っ直ぐ見つめたあと、曇りのない眼でトドメを刺してきた。
「!!赤いワンピース!!」
「うあああああ~!俺1人で家帰れない!!!青八木んち泊まる!」
まるで幼稚園児のように駄々をこねた相棒にしがみつかれ、半ば強制的に自分の家に泊める羽目になってしまった青八木だった。